生きるためのセミリタイア

当たり前を疑い、40代セミリタイアを目指す

時代ものに興味が持てない

・興味が持てない理由

本を読むのは好きだが、全然手を付けていないジャンルがある。時代小説だ。

時代小説って狭めの本屋でもしっかり棚があったり、かなりのスペースを占めているので、一定以上の人気があるのだろう。長く続いているシリーズも多い。

時代ものというと主に江戸時代だと思うが、昔の話だからしかたないけどまず男性中心だし、どうしても女性の生き方に幅がなくて、誰々の娘、おかみさん、あとは遊女とか。
なんか運が100%みたいな感じで、だいたい耐えるしか選択肢がないから、息苦しくて興味が持てないのかもしれない。

歴史でも、戦国時代とか根強い人気があって、好きな人には悪いけど私は正直どうでもいいと思ってしまう。
教養がないと言われてもしかたないのだが、信長・秀吉・家康以外の人物や○○の戦いやらを、たとえに使われてもよく分からなくて困ってしまう。野球のたとえより困るかもしれない。
権力争いとかに興味がなさすぎて、全然覚えられないのだ。

・昔の人の暮らし

しかし、昔の人が何を食べてどんな暮らしをしていたかといった内容には興味がある。
杉浦日向子「一日江戸人」など、面白いので何度も読み返している。
庶民が楽しくテキトーに暮らしているところがよい。

もっとさかのぼって、どんぐりを食べられるようにする工程とか、貝塚からこんなものが出てきたとかも結構楽しい。

興味の対象が正史か稗史か、という違いなのかもしれない。

文藝2021年春季号「夢のディストピア」感想

文藝2021年春季号を読んでいるので、掲載作品についてメモを残しておく(まだ全部読めていない)。

 

文藝 2021年春季号

文藝 2021年春季号

  • 発売日: 2021/01/07
  • メディア: 雑誌
 

 

 

児玉雨子「誰にも奪われたくない」

惹句にあった「距離を取るのも会えないのも、みんなそんなにさみしい?」が気になり、楽しみにしていた作品。
アイドルグループに楽曲提供した主人公と、そのアイドルの一人が交流する。

わざわざ文芸誌を読むような偏屈な人(私を含む)は、主人公の他者との距離の取り方に共感を覚えると思う。
思わず「そっ閉じ」したくなるメールが登場するのだが、その高圧的な感じが、そこだけでも読んでほしいくらい見事なので必見。
電子機器をはじめ、小物の使い方も印象的だった。

山下紘加「エラー」

主人公は、可愛い容姿とのギャップが売りの大食いクイーン。

大食いと文学ってだいぶ遠いところにあると思うので、新鮮な組み合わせ。
フードファイターのトレーニングなど、知らないことが色々出てくるのも楽しい。読後、大食いについて調べてしまった。
主人公の恋人に対し、読んでいてイライラしてくる感じが絶妙。
私は胃弱なので、読んでいるだけで満腹になってしまい、ちょっと胃が気持ち悪くなりながらも続きが気になってどんどん読んでしまう作品だった。

特集:夢のディストピア

対談 飛浩隆×高山羽根子「ディストピア小説の主人公とは誰か」

高山
先ほど全体主義という言葉が出ましたが、たくさんの人が社会で生きていくために、ひとつの方向を向いている方が生きやすいという見方がありますよね。でも、そのときに違う方向を向いてしまった人の物語がディストピアなんです。

 

高山
たぶんわれわれ作家は、みんなが同じ方向を向いているときに、なるべくキョロキョロしようとする生き物なんだと思うんです。
 作家なんていうのは、村のちょっとヤバい奴みたいなところがあって、なんか変なことばっかり言っているな、と思われている人なんですよ。聞いてもらえるかもらえないかはわからないけれども、何かそういうことを言いつづける生き物。それがありがたがられる巫女になるのか、村のはずれのヤバいおばあちゃんになるのかはまた別なんですけどね。

出典:文藝2021年春季号(河出書房新社)

SFファンというわけではないのだがディストピアものが好きなので、この特集に惹かれて購入した。
「違う方向を向いてしまった人」という指摘があるが、ディストピア作品では「この世界だったらそんなに嫌じゃないかも…」というものもある。例えば「一九八四年」の世界にはあまり住みたくないが、「すばらしい新世界」だったら結構幸せに暮らせると思う。休暇を取ったみたいに気分がよくなる薬が配給されるし、生殖からも解放されている。
確かに、「すばらしい新世界」も、大多数の人たちとは違ってその世界で疑問を持ってしまった人や、外部からその世界に来た人の視点が入るからこそ物語が展開していくのだ。

金原ひとみ「腹を空かせた勇者ども」

主人公はコロナ禍の中、バスケ部で頑張る中学生。
以前、金原ひとみと綿矢りさの対談で、「最近の若い世代は(自分たちがその年齢だった頃と違って)ものすごく健全でいい子で、びっくりする」といった話をしていたのだが、この感覚が本作に活かされているような気がした。

作品と関係ないが、私も同様に驚いた経験がある。テレビのニュース番組で新社会人に対し街頭インタビューをしており、とても自然な様子で「今まで育ててもらって感謝している。親と社会に恩返ししていきたい」と語る新社会人がいた。それを照れるでもなくさらっと言えるのがとても眩しく、羨ましいとさえ思った。

真藤順丈「オキシジェン」

作家や詩人、画家たちが「グッドエア社」の治験を受けている。
施設内で同社の高濃度酸素(アロマなども入っている)を吸入して集中力を上げ疲労回復しながら、「来るべき未来」をテーマに創作を行うのだが…という話。

これこれ、ディストピアってこんな感じだよね、待ってました!という印象の作品。
なんとなく急いで終わってしまったような感じがしたので、もう少しじっくりと単行本一冊分くらいになったものを読みたいと思った。

高瀬隼子「休学(国産のため)」

「男が二人目を産むのはおかしいですか」人間職員の私は、休学届を手にした学生に慌てて首を振った。

この短いフレーズで十分興味をかき立てられる。「男が二人目を産む」の部分はもちろんだが、「人間職員」?人間じゃない職員の方が多いのか?と。
ディストピア×生殖という作品が特に好きなので、楽しく読んだ。
似たテーマの作品としては、村田沙耶香「消滅世界」、田中兆子「徴産制」などを思いつく。
「侍女の物語」はどうか?女性だけが妊娠出産していることは変わらず、科学技術の進歩という要素がないから少し違う。

学食にも図書館にも、妊娠体優先席があるし、全ての講義室の席はゆったりと広く、妊娠体でも窮屈にならないスペースを取ってある。トイレも広いし、医務室のベッド数も多い。むかし、女性しか妊娠できなかった頃は、こんなに設備が整っていなかったと聞く。出産だって痛かったらしい。それもものすごく。意識があるまま、痛みを感じる状態で体を切り裂いていたなんて、正気の沙汰じゃない。そんな旧時代的な出産方法は、男性の妊娠が可能になるのと同時に、当然廃止された。

そう、私もそう思う。当事者が女性だけだから、縄文時代みたいなままでなんとなく放置されているに違いない。
(過去記事 )

fluffysamoyed.com

 
スマホとか十分進歩したしもう一旦置いといてもらっていいから、妊娠出産の方法と、あと傘にイノベーションを起こしてほしい。どっちも基本構造が100年前から大して変わってないと思う。

本作は出産に関わる制度以外にも、主人公がポリコレ的観点から発言にかなり気を遣っている点も印象に残った。

化粧どころか保湿も面倒になってしまった

最近、スキンケアを面倒に感じるようになってしまった。

2020年、化粧をする機会はめっきり減っていたのだが、それでも肌の保湿はせっせと続けており、外出の予定はなくともいろんな基礎化粧品を塗りたくっていた。

導入化粧水→オイル→化粧水→導入美容液→美容液→クリーム→アイクリーム
これが基本ステップで、朝と夜、季節やコンディションで使い分けるものもある。手足など体の保湿には、また別のものを使っている。
最低限には程遠い品数だ。

シカ、ヨモギ、ドクダミ、発酵にビタミンCにプロポリス…
新製品を試すのも、コスパのいい商品を探してセールで入手するのも楽しみだった。
欲張りなので日本の製品だけでは飽き足らず、iHerbにある海外製品や、韓国コスメにも手を広げていた。それが楽しかったのだ。

でも今は、ずらりと並んだボトルに少しうんざりしてきている。
これらを次々塗っていくことを考えると気が重くて、洗顔や入浴自体が億劫になってしまったのだ。

試しに一日、朝の洗顔も保湿もしなかった。
何も起こらなかった。

全く誰にも会わない生活ではないので、入浴を何日もさぼるわけにはいかない。冬とはいえ、スメハラ加害者になってしまう。あと、シーツなどの洗濯頻度を上げる方が面倒だ。
入浴のハードルを下げなければいけない。
そこで、スキンケアを減らしていくことにした。
今あるものやストックを捨てはしないが、使い切っても次を購入しない。

この億劫さはたぶんうつ症状とかではなくて、今までが過剰すぎたのだ。
冒頭の基本ステップだけで7工程もある。多すぎて、自分のことだが強迫観念じみたものを感じる。
乾燥肌の人でも、せいぜい半分くらいあれば十分ではないか?減らしてみて変化が起きないか試したい。
2021年はもっとシンプルにしていく。

おおたとしまさ「ルポ 教育虐待」

おおたとしまさ「ルポ 教育虐待 毒親と追いつめられる子どもたち」(ディスカバー携書、2019年)

ルポ教育虐待 毒親と追いつめられる⼦どもたち (ディスカヴァー携書)

自分自身が明らかに受けていたとか、自分が子育てしているとかではないのだが、「教育虐待」は興味のあるテーマだ。
時々、親が子を、子が親を殺す事件にまで発展してしまってニュースになることもある。また、秋葉原殺傷事件の犯人が母親から苛烈な管理教育を受けていたこともよく知られている。

 

教育ママの思い出

子どもの頃少し交流があって、時々思い出す姉妹がいる。
適当にぼかして書くが、父は地元の名士、母は専業主婦で、いわゆる教育ママ。姉妹にいろんな習い事や勉強をさせている。
華やかな人なのだが、いつもイライラしている感じだった。
妹は日常生活に支障が出るくらいの体型なのに、舞踊系の習い事に通わされていた。
想像でしかないが、母親が憧れていたのではないか?そういう特殊な世界は、本人がすごく楽しくてやりたいのでなければ、苦痛でしかないのではないか?

姉は名門校に進学したと聞いた。冷めた表情で母親の批判をするのを見ていたので、姉の方はあまり心配していない。面従腹背を続けて進学により親元を離れる、とかもできそうだからだ。
しかし、いつもぐずっていて楽しそうにしているところを見たことがない妹は、一体どうなったのか?病気になっていないか?と勝手に心配している。

印象に残った記述

本書によれば、教育虐待に至る親には大きく2タイプがあるという。
①親が学歴コンプレックスを持っている場合と、
②親自身が高学歴の場合だ。
また、両者のハイブリッド(例えば、東大に落ちて慶應に行った)もいるらしい。これが一番恐ろしい気がする。

・親自身はどうなんだ?

わが子が弱いということを許せない弱さ

その男の子は涙をぽろぽろと流しながら、「自分は社長になろうなんて考えてもいないくせに、なんで僕にだけ一番になれと言うんだよ」と、父親に対する不満をぶちまけた。
息子から見て父親は、「社長を目指す」と宣言するような野心のある人間ではない。それなのに息子には「東大に行け」とか「一番になれ」とかそんなことばかりを言う。「お父さんは自分にできないことを僕にだけやらせようとしている」と涙ながらに訴えたのだ。

出典:おおたとしまさ「ルポ 教育虐待 毒親と追いつめられる子どもたち」(ディスカバー携書、2019年)

本書の読者で、これを読んでドキッとした親は多いのではないか。この男の子は中3とのことだが、鋭い指摘である。自分はどうなの?ということだ。

・教育と人材育成の違い

ケヤキにはケヤキの育て方があり、松には松の育て方がある。それぞれ適切な環境を与えられれば、小さな種子は自らの力で芽吹き、自らの力で根を張り、自らの力で枝葉を伸ばし、大木となる。それが教育。
つまり教育とは、それぞれの人間の特性を見極め、好ましい環境を与えること。だから、「どんな教育がベストか」を論じることには意味がない。「どうやったら多様な人間が育つか」を論じるべきだ。
一方、「人材育成」とは、なんらかの目的に合う材料として一定のスペックをもつ状態に人間を加工 、、 すること。どうやったら効率よく「人材」を育成することができるかに主眼が置かれる。
注意すべきは、「食材」も「木材」も、一般的には「材」になったときにはもう死んでいるということだ。人間の場合、「人材」と呼ばれても本当に殺されるわけではない。しかし「材」としての「役割」にとらわれてしまっては、「生き物」としての「生き様」を失う。「材」となったものにはすでに「生きる力」はない。
そして「人材育成」という言葉と「教育虐待」という言葉は、どちらも指導を受ける側の意思が後回しにされている点が共通している。つまり「人材育成」の概念は「虐待」に直結しやすい。

出典:おおたとしまさ「ルポ 教育虐待 毒親と追いつめられる子どもたち」(ディスカバー携書、2019年)

※下線は引用者による

下線部分に目が覚める思いがした。名言である。「人材」になったら死んでるみたいなものだ、恐ろしい。

教育虐待は勉強だけじゃない

本書を読んで思い出した文章がある。

「私の知り合いに、小さい頃から両親にヴァイオリンをやらされてた子がいるの。藝大器楽科ヴァイオリン専攻にも合格して、四年間ちゃんとヴァイオリンをやり続けた。間違いなく才能はあったと思う。それも抜群にね」

「その人はどうなったの?」

「卒業してすっぱりヴァイオリンをやめたわ。これで義理は果たした、って言ってね…」

出典:二宮敦人「最後の秘境 東京藝大」(新潮社、2016年)

 東京藝大に入れるぐらいの時間と労力を、やりたくないことに注ぎ込むなんて相当もったいない。。子どもは親と別人格ということは、すぐ忘れられてしまう。

 

勉強できる子は、ほっといてもやる

やたら教育熱心な親に対し私が疑問に思うのは、勉強させる親自身、勉強とは「やりたくないけど我慢してやるものだ」と思っているのではないかということだ。
何のために勉強するのかと問われれば、「将来のため」とか言うんだろう。
これは想像だが、灘中に合格するような子たちの中には、言われたから勉強するとかじゃなくて、勉強自体が楽しいと思っていて自分がやりたいからやっている層が多いのではないか。
嫌々やっていたら続かないと思う。例えば昆虫マニアで、図鑑で調べたりするのが楽しくて…とかそういう感じ。
勉強が楽しいと思う子、学問に向いている子は、ほっといても勉強する。無理にやらせても、ある程度までは行けるだろうけど限界が来るだろう。

子どもって全然自由じゃない

一般的には「子どもは自由でいいよな」と言われたりするように、子どもの頃にあった自由さを大人になると失うと考えている人も多い。
しかし、私はこの考え方には反対である。たとえ社畜と自称するサラリーマンであっても、子どもよりはずっと自由を手にしている。

幼児虐待は言うまでもなく、中学生が追いつめられた末に死を選ぶようなケースでも思うのは、子どもにはほとんど自由がないということである。
大人だったら一人で遠出するなど何でもない行為だが、子どもはそれをやると「保護」されてしまう。
住むところも、今日何を食べるかすらも決めることができない。
どんな親の元に生まれるかという運100%の環境で、家庭と学校くらいしか居場所はなく、虐待やいじめを受けても大人のように転職などで環境を変えることが困難である。
これのどこが自由なのか。

「出て行け」は「死ね」と同じ意味

小さなころから「言うことを聞かないのなら出て行きなさい!」と言われて育ってきた。子どもが家を追い出されたら、それはすなわち死を意味する。つまりその子はそれまでずっと「言うことを聞かないのなら死になさい!」というメッセージを受けとり、脅されながら育ったのだ。

出典:おおたとしまさ「ルポ 教育虐待 毒親と追いつめられる子どもたち」(ディスカバー携書、2019年)

本書で紹介される子どもシェルターでのエピソードである。

親子関係にはそもそも歴然とした力関係がある。家庭が安全であるという前提(幻想)で、なんでも家庭でうまくできるだろうという期待(幻想)こそが、弱者に対するしわ寄せを生み、最悪の場合悲惨な事件に至るのだと思う。

もういい加減、家族幻想は捨てるべきだ。

プライドはあるけど、そこにはない

「プライド」というものは、仕事と絡めて語られることが多い。
「自分の仕事にプライドを持て」「○○としてのプライド」、やる気がなさそうな労働者に対しては「プライドはないのか」など。

プライドとは誇り、自尊心と訳される。

しかし、労働は自尊心を削ってくることも多い。労働者はプライドなんてあまり要らないというか、あるとかえってしんどい気もする。仕事と自己実現が結びついている人はそれでいいと思うし、羨ましいのだが。

「相手のプライドを傷つけないように、こういう言い方にしましょう」といった他者のプライドに配慮する文言もよく見かける。
そこで疑問に思うのは、プライドってそんなに傷つくか?ということである。

なんかテーブルの端っこみたいなグラグラのところに置いてあるのだろうか?
大事で傷つけたくないものなら、そんなところに置いておいてはいけない。

もちろんあえて傷つけようなんて思わないし、配慮するのだが。

プライドはあるけど、そんなところにはないだけ。
私のプライドは、赤の他人の手の届くところには置いてない。だから他人の言葉でプライドが傷つくことはあんまりない。

プライドと他人って本来関係ないものなのでは、と思う。

身も蓋もない女性向けサバイバル術指南「馬鹿ブス貧乏で生きるしかないあなたに愛をこめて書いたので読んでください。」

藤森かよこ「馬鹿ブス貧乏で生きるしかないあなたに愛をこめて書いたので読んでください。」
(KKベストセラーズ、2019年)

 

 

ラノベにありそうな長いタイトル。
ブスの処世術みたいな本って時々出てくるし、「なんでそこまでして『つがい』にならないといけないのか?」とイラつくものもあったりするけど、本書はジェーン・スーが帯を書いていて、一味違いそうだと興味を持って読んでみた。

まず、表紙のイラストの女性たち、特に部屋着の人たちが絶妙にだらしなくていかにも実際にいそうだ。そういうよくいる感じの人に向けた本ですよ、ということだと思う。

目次の時点で刺激的。ごく一部を抜粋する。

苦闘青春期(37歳まで)

・本格的ブスは美容整形手術を受ける
・青春期こそ外観改良の費用対効果は高い
・とりあえず男を見たら性犯罪者と思う

 

過労消耗中年期(65歳まで)

・老年期に入るまでに自分の性欲を消費しておく

 

匍匐前進老年期(死ぬまで)

・馬鹿は中年期の終わりまでには死ねない

 

などなど。

著者の「馬鹿ブス貧乏」の定義が独特というか、大抵の人は含まれるであろう定義になっている。

馬鹿:一を聞いて一を知るのが精一杯
ブス:顔やスタイルで食っていけない
貧乏:賃金労働をしないと食べていけない

女性の生き方系って、「玉の輿に乗る」系か、かなり意識高い人向け(シェリル・サンドバーグのLEAN INみたいな)か、
あとはもうキラキラ自己啓発、スピリチュアル系とかで、あんまりしっくりくるのがないと思う。
本書は、地に足のついた、女性向けサバイバル指南本。

印象的な箇所を少し紹介すると、

パーリーピーポーといっても、せいぜいは飲み放題三千円で不味いもの食べて楽しいフリしているだけだ。持ち寄りのポテトチップスの袋を開けて食べているだけだ。話す内容も空虚な時間つぶしだ。そんな集団行動につきあうぐらいなら、ひとりでいるほうがいい。

著者は一人でいることを肯定している。自分が思っていることを言ってくれた感じがした。

まともな男は50人中14人しかいない。

「根拠はないけど50人に一人はサイコパス、二人は痴漢、三人は…」と主観でだいぶテキトーに計算していってこの数字になるのだが、まぁ実際そんな感じじゃないだろうか。言い切りっぷりが清々しくて笑った。

女の人生は、このような危機(※引用者註:性犯罪や望まない妊娠のこと)に満ち満ちている。だから女は鍛えられる。日本のような社会で育つと頭が悪くなりやすいが、それでも女性のほうが男性よりは本格的馬鹿が少ないように見受けられる。
それは、やはり女性の人生のほうが厳しいからだ。特にブスで馬鹿で貧乏な女性の人生は、大らかに馬鹿やっていられないほどに厳しい。いやおうもなく鍛えられる。おめでとう。

こんな風に女性の置かれる厳しい立場を直視した上で、生き抜く方法が考察されている。

著者は60代後半(1953年生まれ)なので、「老年期」の入口まで体験した上で書かれている。これくらいの世代の著者でしかも旧来の価値観から自由な人ってそんなにいないので、読んでてスカッとする。
「あなたは馬鹿なので」といった表現は頻出するものの、上から目線でもなく、親身に語りかけてくれている感じがある。


読書や学び続けること、現実を直視すること、エネルギーを使い切ることなどを勧めており、タイトルから受ける印象よりもまっとうな内容である。
更年期についての情報も多く、あまり知らなかったので勉強になった。
紹介されている本も面白そうなものが多く、ここからさらに読書が広がるという楽しみもある。例えば、諸富祥彦「孤独であるためのレッスン」(NHKブックス、2001年)などはこの本で知って読んでみたところ、普遍性のある良書だった。
突如登場する陰謀論や「舌はがし」など、正直戸惑う部分もあったが、全体としてとてもためになる本だった。

全編通して、とにかく身も蓋もない。

現実を直視し、なんとか生き抜きたいと思う女性におすすめの一冊である。

「ばらまきチョコ」もうやめませんか?

「ばらまき」って何だ

1月も下旬になると、バレンタインデーに向けたチョコレートの記事を目にすることが増える。
その中で私が苦手なのが、「ばらまきチョコ」という言葉だ。

他に「ばらまき土産」などもそうだが、なんだか響きが汚いし、エサっぽくて相手に失礼な感じがする。
こんなもんでいいでしょ、配っとけばいいんでしょ、という感じなのだ。

そんなんだったら配らなければいいのに、と思う。
何のために配っているのかよく分からない。

お返しとか考えないといけなくなるのも迷惑だ。

「安いから手作り」?

安く大量にできるから手作り!というのもよく見かけるが、やめてほしい。

お菓子作りが得意で、普段からよく作っている人がきれいにラッピングしてくれたようなのなら別に抵抗感はないのだが、
ちゃんとした製菓材料って結構高いのに、安くあげるためにホットケーキミックスと炊飯器とか、
バターをケチってマーガリンとか…
自家消費なら個人の自由だが、他人に配るのはやめてほしい。
吹き出物が出るから、マーガリンとか謎の油は避けている。よく分からないものは食べたくないのだ。

せめて包んであったら、「持って帰って家でゆっくり食べます~」と言えるのでまだいいが、
最悪なのは、一つ摘ままされたり、ティッシュの上とかに置かれて、その場で食べざるを得ない状況に追い込まれることだ。
ティッシュに油染みとかできているのを見るとゾッとしてしまう。
食べるものとタイミングくらい、自分で決めさせてほしい。

食べるタイミングといえば、あまりちゃんとした美味しいものはそもそも職場では食べないことにしている。
電話が鳴ったり急に話しかけられたりしてゆっくり味わえる環境じゃないし、なんか職場で食べると味がしない感じがしてもったいないからだ。

チョコレートが好きだからこそ

私はチョコレートが好きで、特に冬場は種類が豊富になるから楽しみにしている。
チョコレートが好きだからこそ、紛い物のチョコもどきみたいなのは食べたくない。

「準チョコレート」「チョコレート菓子」は、健康面もそうだけど単純に美味しくないことが多いので避けている。
お菓子は栄養的にはそもそも食べなくてもいい(食べない方がいい)ものなので、美味しくなければ意味がない。

この前、人からもらって某有名な動物の形の「準チョコレート菓子」を何年かぶりに食べたら、全然チョコレートじゃなかった。
風味も口溶けもなくて、プラスチックかと思った。子供の頃はわりと好きだった記憶があるのだが…

虚礼廃止!

そもそもバレンタインにチョコレートを渡すなんて作られたもので、縁起担ぎですらない、別に要らない風習なんだから、安く済ませたいならやらなくていい。
何も渡さなければ0円だ。

正直、別に欲しくないものを喜んでいるふりをしたり、何よりお返しをしなければならないのが面倒くさい。

職場でバレンタインにチョコを配るとして、若手女性が買いに行ったり集金したり、かさばる紙袋を持って通勤電車に乗ったりするはめになる。
渡したら、今度は1か月後に若手男性がまた同じことをやらされることになる。しかも年度末の忙しい時に。しょうもない。
そんな流れは始めないのが一番だ。

ここらへんの風習もコロナでだいぶ廃れただろうし、2021年の2/14は日曜日なのでガッツポーズした人もいるのではないか。

自分が食べたいものを好きなタイミングで食べる、それだけのことだ。