生きるためのセミリタイア

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おおたとしまさ「ルポ 教育虐待」

おおたとしまさ「ルポ 教育虐待 毒親と追いつめられる子どもたち」(ディスカバー携書、2019年)

ルポ教育虐待 毒親と追いつめられる⼦どもたち (ディスカヴァー携書)

自分自身が明らかに受けていたとか、自分が子育てしているとかではないのだが、「教育虐待」は興味のあるテーマだ。
時々、親が子を、子が親を殺す事件にまで発展してしまってニュースになることもある。また、秋葉原殺傷事件の犯人が母親から苛烈な管理教育を受けていたこともよく知られている。

 

教育ママの思い出

子どもの頃少し交流があって、時々思い出す姉妹がいる。
適当にぼかして書くが、父は地元の名士、母は専業主婦で、いわゆる教育ママ。姉妹にいろんな習い事や勉強をさせている。
華やかな人なのだが、いつもイライラしている感じだった。
妹は日常生活に支障が出るくらいの体型なのに、舞踊系の習い事に通わされていた。
想像でしかないが、母親が憧れていたのではないか?そういう特殊な世界は、本人がすごく楽しくてやりたいのでなければ、苦痛でしかないのではないか?

姉は名門校に進学したと聞いた。冷めた表情で母親の批判をするのを見ていたので、姉の方はあまり心配していない。面従腹背を続けて進学により親元を離れる、とかもできそうだからだ。
しかし、いつもぐずっていて楽しそうにしているところを見たことがない妹は、一体どうなったのか?病気になっていないか?と勝手に心配している。

印象に残った記述

本書によれば、教育虐待に至る親には大きく2タイプがあるという。
①親が学歴コンプレックスを持っている場合と、
②親自身が高学歴の場合だ。
また、両者のハイブリッド(例えば、東大に落ちて慶應に行った)もいるらしい。これが一番恐ろしい気がする。

・親自身はどうなんだ?

わが子が弱いということを許せない弱さ

その男の子は涙をぽろぽろと流しながら、「自分は社長になろうなんて考えてもいないくせに、なんで僕にだけ一番になれと言うんだよ」と、父親に対する不満をぶちまけた。
息子から見て父親は、「社長を目指す」と宣言するような野心のある人間ではない。それなのに息子には「東大に行け」とか「一番になれ」とかそんなことばかりを言う。「お父さんは自分にできないことを僕にだけやらせようとしている」と涙ながらに訴えたのだ。

出典:おおたとしまさ「ルポ 教育虐待 毒親と追いつめられる子どもたち」(ディスカバー携書、2019年)

本書の読者で、これを読んでドキッとした親は多いのではないか。この男の子は中3とのことだが、鋭い指摘である。自分はどうなの?ということだ。

・教育と人材育成の違い

ケヤキにはケヤキの育て方があり、松には松の育て方がある。それぞれ適切な環境を与えられれば、小さな種子は自らの力で芽吹き、自らの力で根を張り、自らの力で枝葉を伸ばし、大木となる。それが教育。
つまり教育とは、それぞれの人間の特性を見極め、好ましい環境を与えること。だから、「どんな教育がベストか」を論じることには意味がない。「どうやったら多様な人間が育つか」を論じるべきだ。
一方、「人材育成」とは、なんらかの目的に合う材料として一定のスペックをもつ状態に人間を加工 、、 すること。どうやったら効率よく「人材」を育成することができるかに主眼が置かれる。
注意すべきは、「食材」も「木材」も、一般的には「材」になったときにはもう死んでいるということだ。人間の場合、「人材」と呼ばれても本当に殺されるわけではない。しかし「材」としての「役割」にとらわれてしまっては、「生き物」としての「生き様」を失う。「材」となったものにはすでに「生きる力」はない。
そして「人材育成」という言葉と「教育虐待」という言葉は、どちらも指導を受ける側の意思が後回しにされている点が共通している。つまり「人材育成」の概念は「虐待」に直結しやすい。

出典:おおたとしまさ「ルポ 教育虐待 毒親と追いつめられる子どもたち」(ディスカバー携書、2019年)

※下線は引用者による

下線部分に目が覚める思いがした。名言である。「人材」になったら死んでるみたいなものだ、恐ろしい。

教育虐待は勉強だけじゃない

本書を読んで思い出した文章がある。

「私の知り合いに、小さい頃から両親にヴァイオリンをやらされてた子がいるの。藝大器楽科ヴァイオリン専攻にも合格して、四年間ちゃんとヴァイオリンをやり続けた。間違いなく才能はあったと思う。それも抜群にね」

「その人はどうなったの?」

「卒業してすっぱりヴァイオリンをやめたわ。これで義理は果たした、って言ってね…」

出典:二宮敦人「最後の秘境 東京藝大」(新潮社、2016年)

 東京藝大に入れるぐらいの時間と労力を、やりたくないことに注ぎ込むなんて相当もったいない。。子どもは親と別人格ということは、すぐ忘れられてしまう。

 

勉強できる子は、ほっといてもやる

やたら教育熱心な親に対し私が疑問に思うのは、勉強させる親自身、勉強とは「やりたくないけど我慢してやるものだ」と思っているのではないかということだ。
何のために勉強するのかと問われれば、「将来のため」とか言うんだろう。
これは想像だが、灘中に合格するような子たちの中には、言われたから勉強するとかじゃなくて、勉強自体が楽しいと思っていて自分がやりたいからやっている層が多いのではないか。
嫌々やっていたら続かないと思う。例えば昆虫マニアで、図鑑で調べたりするのが楽しくて…とかそういう感じ。
勉強が楽しいと思う子、学問に向いている子は、ほっといても勉強する。無理にやらせても、ある程度までは行けるだろうけど限界が来るだろう。

子どもって全然自由じゃない

一般的には「子どもは自由でいいよな」と言われたりするように、子どもの頃にあった自由さを大人になると失うと考えている人も多い。
しかし、私はこの考え方には反対である。たとえ社畜と自称するサラリーマンであっても、子どもよりはずっと自由を手にしている。

幼児虐待は言うまでもなく、中学生が追いつめられた末に死を選ぶようなケースでも思うのは、子どもにはほとんど自由がないということである。
大人だったら一人で遠出するなど何でもない行為だが、子どもはそれをやると「保護」されてしまう。
住むところも、今日何を食べるかすらも決めることができない。
どんな親の元に生まれるかという運100%の環境で、家庭と学校くらいしか居場所はなく、虐待やいじめを受けても大人のように転職などで環境を変えることが困難である。
これのどこが自由なのか。

「出て行け」は「死ね」と同じ意味

小さなころから「言うことを聞かないのなら出て行きなさい!」と言われて育ってきた。子どもが家を追い出されたら、それはすなわち死を意味する。つまりその子はそれまでずっと「言うことを聞かないのなら死になさい!」というメッセージを受けとり、脅されながら育ったのだ。

出典:おおたとしまさ「ルポ 教育虐待 毒親と追いつめられる子どもたち」(ディスカバー携書、2019年)

本書で紹介される子どもシェルターでのエピソードである。

親子関係にはそもそも歴然とした力関係がある。家庭が安全であるという前提(幻想)で、なんでも家庭でうまくできるだろうという期待(幻想)こそが、弱者に対するしわ寄せを生み、最悪の場合悲惨な事件に至るのだと思う。

もういい加減、家族幻想は捨てるべきだ。