ステレオタイプな子ども像
子どもの頃、「カレーとハンバーグが好きで勉強は嫌い、体育大好き」みたいなステレオタイプを、アニメとかでも現実でも押し付けられるのがしんどかった。
なんで勉強は嫌々やる前提なのか。野菜は我慢して食べるものという前提なのか。
そうやって刷り込むから、勉強が楽しいと思えなくなるのではないか。
運動会やマラソン大会に出るくらいなら、計算ドリルの5冊でも解くからドサッと渡してくれと思っていた。
自称「子ども好き」の大人は、大抵冒頭のような「自分の好きな子ども像」に当てはまる子どもしか好きじゃないから、苦手だった。
実際は、そんな像にそのまま当てはまる子の方が少数派だとは思うけど。
苦手だった同級生が教育実習に行ったという話を聞いて、
あぁ、こうやって再生産されるんだなぁ…と悲しい気持ちになったことがある。
その同級生はかつて、自分は大人に好かれるということを公言していた。
気に入らない相手は他の人を巻き込んで攻撃したりしていた。でもずっと中心的な人物だった。
学校にいい思い出がない人は、まず教師なんて目指さない。
澤村伊智「などらきの首」
昔そんなことを考えたのを、澤村伊智の短編集「などらきの首」を読んで思い出した。
この短編集の中で最も印象に残った作品は、「学校は死の匂い」だ。
冒頭で、著者の組体操への憎しみが炸裂している。短編なぶん、すぐネタバレになりやすいから詳しくは紹介しないが。
私も組体操なんて大嫌いだった。なぜ小石まじりの砂の上を裸足で走って、むき出しの膝と手のひらをつかないといけないのか。本当は組体操なんてやりたくない子の方が多かったんじゃないか。
毎日毎日拡声器で汚い言葉遣いで怒鳴られて、学校の近所に住む人から苦情が来るんじゃないか?というか来てほしい、と思った。
また、その次に収録されている「居酒屋脳髄談義」では、
部下や後輩をサンドバッグにして自分がスッキリしたいだけの“職場の飲み会”に対する怒りもだいぶストレートに表現されていた。
著者の他の作品でもそうだが、集団や多数派にになじめない、疑問を持ってしまう側の視点が大切にされていると思う。
女性の描き方にノイズがない
また、女性の登場人物が記号的じゃないところも読みやすく感じる。記号的な(謎の)「美女」が登場したり、執拗に外見の描写が続いたり、変な「サービス」とかがない。想定読者から除外されていない感じで、ノイズがないのだ。名作であっても、その辺りが古臭いと読むのが辛くなってしまっている。
もちろんホラーやミステリとして見事に楽しませてくれるところがすごいのだが、余計なノイズがないところも澤村伊智作品の好きな点である。