生きるためのセミリタイア

当たり前を疑い、40代セミリタイアを目指す

結局、労働から離れない限り解決しない

 

2年間、ブログから離れていた。

休職して、復職して、転職した。

新しい職場でもまた、休職しそうになっている。

そもそもフルタイム、総合職、サラリーマン自体が向いてないということが濃厚になってきた。

 

美味しいものを食べようが、旅行に行こうが、推しが尊かろうが、

労働している限り、問題は根本的に解決しない。

 

だましだまし、目標金額までは労働を続けるつもりだったが、目標金額に達していなくても、当初の予定より早くリタイアすることが心身を守るために必要かもしれない。

まだ他に生計を立てる方法の目処はついていない。それでも、この苦しみを根本的に解決するには、労働から離れるしかないように思う。たとえそれが「貧乏FIRE」といわれるものであったとしても。

「もう、服は買わない」ー広告と幻想、物欲の関係

 

コートニー・カーヴァ―「もう、服は買わない」(ダイヤモンド社、2020年)

プロジェクト333とは

本書で紹介されているプロジェクト333とは、3か月間、33アイテムで過ごすというチャレンジのこと。
アイテムには衣類(下着類やパジャマなどは除く)のほか、靴やアクセサリー、バッグも含まれる。
気温などに応じて、アイテムを入れ替えてもよい。

このチャレンジをすることで服選びや買い物に割く時間やエネルギーが減り、自分にとって本当に必要なことに集中できる…といったものだ。

 

私は服をアプリで管理しているので、本書を読んで季節ごとにアイテムを選んでみたのだが、
「夏」というタグをつけたアイテムが27、
「秋」は13しかなかった。
実際数えてみると33アイテムというのは結構余裕があり、ファッション好きの人でも意外と満足できる数字だと思う。

 

広告による「思い込み」

プロジェクトそのもの以上に興味深かったのは、著者がもともと広告業界にいたということだ。
その経験を踏まえ、広告によっていかに我々が物を買うよう思い込まされているかということが繰り返し語られる。
この記事では、プロジェクト333のやり方よりも、広告に着目してみたい。

モノで人生は変わらない

実のところ、人生をがらりと変える服など存在しません。あなたを別の人間のように思われてくれるアイテムもありません。いくらショッピングをしたところで、過去を修正することも、未来をバラ色にすることもできません。「もっと」が答えではないのです。

これを買うと人生が変わる、かのように幻想を抱いて服やコスメを買ってしまうというのはよくあることだ。

本当に新しい服が「必要」だからという理由で、買い物をすることはめったにありませんでした。退屈を紛らすため、仕事のうさを晴らすためにショッピングをしていたのです。新しいものを買えば少しは幸せになれるし、よりよい人生が実現すると、本気で信じてもいました。

ショッピングセラピーというやつか。いっときは気がまぎれても、すぐに効果は切れて他のものが欲しくなる。

 

モノやショッピングで気分が上向くことはない

心の叫びに耳を傾ける時間を持てば、今必要なのは近所のショッピングモールやお気に入りのオンラインショップでの買い物ではないことがわかるはずです。ですから一時の気晴らしに走るのはやめて、本当の意味で自分をいたわってセルフケアをしましょう。

(略)

企業やショップの広告は、「この商品こそあなたの苦しみをやわらげます」と、さかんに訴えかけてきます。でも、一人で過ごす静かな時間を少しでも持てば、心の声に耳を澄まし、自分が一番必要としているものがわかってきます。

本当に自分に必要なのは買い物なのか。睡眠、入浴や休息ではないのか?

自分の体が買い物を必要としているなんてことは、まずないはずだ。

 

広告は「足りない」と思わせるのが仕事

 

服を着る、服を買う、何を着るか決める。そんなことに、どうして労力を費やすの?

・満たされず、不安だから
マーケティングの戦略を練る人たちは「今のままじゃ足りない」と、私たちにけしかけてきます。実際、私たちは1日に5000以上もの広告にさらされています。1970年代には500だったというのに(それでも多すぎますね)。私自身、以前は広告会社の幹部として働いていました。ですから、はっきりと言います。広告会社や雑誌のメッセージは「この商品を購入すればよりよい人間になれる」と訴えかけているのです。もっと美しくなれる、もっと成功できる、もっと愛されるようになりますよ、と。それが彼らの仕事なのです。こちらから「もう結構!」と言わない限り、そうしたメッセージは際限なく垂れ流されてきます。

欠乏感を植え付ける→これがあれば欠落を埋められますよ、という流れだ。

 

 

あなたが何か足りないと感じているのなら、その欠乏感はこちらの商品で埋められますよ、と必死で説得しているのです。だから、「あなたには何かが足りない」と消費者に感じさせることに集中するのです。「足りない」と思ってもらえれば、その隙間を埋める商品を売り込めるからです。

もともとそんな欲望など持っていなかったのに、広告によって呼び覚まされる、「自分に必要なのはこれだ」と思わされるということもあるだろう。

実際には、そもそも他人は自分のことをそんなに気にしていないのだが。

 

買い物にそんな効果はない

完璧なスカーフ、ベルト、ジャケットがあれば全身の装いがまとまるとか、このスカーフをかわいく結べばコーディネートが完成するとか、あなた自身も完成するとか、吹き込まれていますよね。ふさわしい装いをすれば、もっとみんなに関心を持ってもらえる、中身のある人間になれる、完璧な人生を送れるようになる。私は能天気にも、何か買い物をすれば、不安や恐怖心、不満といったものを解消できると楽観していたのです。もちろん、ショッピングにそんな効果はまったくありませんでした。

結局、変わりたいとかもっとこうなりたいとかいう願望を、お手軽に満たせる(ように見える)のが買い物なのだ。それは実に表面的なことにすぎない。

本当になりたい方向に変わるには、我慢や努力が必要だ。時間だってかかる。ダイエット一つ取ったってそうだ。簡単に、ネットショップでポチるようには済まない。

 

買い物を減らす方法

ショッピングを断つには

・しばらく待つ
「これ、絶対に欲しい!」と思ったものは、きっと来月になっても買えるはず。ですから買い物をする前に、とりあえず30日間待ってみましょう。そして30日が経過したあと、そのアイテムがまだ必要と思えるか、素敵に思えるか、よく考えてみましょう。私はこの「とりあえず待つ」方法を実践したところ、かなりの金額を無駄遣いせずに済みました。というのも「絶対に欲しい!」と思ったアイテムのことなど、数日も経てばすっかり忘れてしまうからです。

(略)

・ものに期待するのをやめる
ものに、あなたの人生を変える力はありません。何を買ったところで、それでよりよい人間になれるわけではないのです。
あなたをよりよい人間にできるのは、あなただけです。

時間をおこう

「しばらく待つ」のは本当に有効で、私も実践している。

スマホのメモに、

・○○のアイライナー

・○○色のスカート

とか書いておいて、しばらく放置する。後で見ると、別に要らないなとなって、

・○○のアイライナー→今度でいい

とか書き込んでいる。

時間を置いて本当に欲しかったらその時でも買える、というのを妨げてくるのが、限定商法やタイムセールなど、「今買わないと!」と思わせる戦略だ。

冷静さを失わせ、即決させることが狙い。それでも、似たようなものは手に入るだろうし、全く同じじゃなくても必要な物だったら同じようなものを買うだろう。

まずは落ち着こう。

 

 

ものに幻想を抱くのをやめよう

物に期待するから、これで変われるみたいに思って買ってしまうのだ。

繰り返しになるが、変わるには、我慢や努力、時間が必要。インスタントにはいかない。

買い物を減らしてできた時間やエネルギーを、本当に変化を起こすための努力に注ぎ込もう。

 

白井聡「武器としての『資本論』」を読む【後編】

白井聡「武器としての『資本論』」(2020年、東洋経済新報社)

武器としての「資本論」

生かさぬよう、殺さぬよう

働き方改革は労働者のためではない、と著者は看破する。

19世紀の工場法を見れば、今回の「働き方改革」のような体制側による労働者の救済措置が今に始まったものではなく、昔からあったことがわかります。それは資本主義のある種の必然出会って、あまりに搾取しすぎると、搾取する相手がいなくなってしまって(※)、資本主義は成り立たなくなるのだということです。

(※引用者註:長時間労働→人口の再生産ができない→人口減→労働者も消費者もいなくなる)

搾取しすぎると搾取できなくなってしまうから、生かさず殺さず…というところを見計らって継続的に搾取していく。だから財界(=搾取する側)も「働き方改革」なんて言い出すのであって、別に労働者のためではないということだ。

「しょせんは『働かせ方改革』にすぎない」、という批判はこの点を突いているといえるだろう。

 

際限のないイタチごっこ

生産性の向上=労働の価値の低下

果たして生産力を際限なく上げていくことが、人間の幸福に結びつくのだろうか。そういう疑問があるわけです。
一万円の原価がかかるのが当たり前だった商品が、生産性の向上によって8000円でできるようになった。これは消費する側から見れば、同じ商品がより安く手に入るようになったということです。しかし同時に生産する側から見れば、その製品の社会的価値が低落したことにほかなりません。
そして生産されたものの社会的価値が下がるということは、その生産に従事する労働者から見れば、労働の価値が低下するということです。
「生産力が上昇した」「生産性が向上した」とは、「その生産に従事する労働の価値が低下した」ことを意味しているのです。
(略)
私たちは資本制の中に生きているがゆえに、ひたすら生産力の向上を求められ、それに応え続けてきました。それにより物質的に豊かになったという面はあるにしても、反面ではそれによって私たちの労働の価値が下がり続け、同じ生活を送るためにますます長い時間、働かなければならなくなっています。

機械いくら機械が発展しても、たいして楽にならないどころか労働時間が増えているのはこのせいか!

経済成長と「安い労働力」

日本の高度成長が終わった理由として、オイルショックがよく挙げられます。しかし、より本質的だったのは、農村の過剰人口に基づく労働力を使い尽くしたことでしょう。

「金の卵」と呼ばれた農村の若者たちは安い労働力だったが、次第に地方の開発とともに都市との格差が縮まると、「安くなくなってくる」。

農村における過剰人口を吸い上げ、使い尽くした時点で、莫大な剰余価値を生んでいた労働力のプールがなくなってしまった。これこそが高度成長が終焉した本質的な理由ではなかったか。

 

韓国、台湾、中国、東南アジアの経済成長も同じだ。

「イノベーションによって生まれる剰余価値は、たかが知れているのだ」とわかってきます。資本主義の発展の肝は結局、安い労働力にしかないのです。身も蓋もない話ですが、日本の経済発展が頭打ちになっている時代だからそう見えるのではなく、海外も含めて経済発展の歴史を振り返ることで、「結局、すべての国がそうだったのだ」という真実が見えてきます。


海外から労働力を引っ張ってこようというのも、これと同じことだと納得できる。
技能実習生も、古くは徴用工も、「安い労働力」だ。
東南アジアも「安くなくなった」ら、どうするのか。また別の地域から連れてこようとするのか。
日本国内において、かつての都市と農村に匹敵するようなまた別の格差から「安い労働力」が生まれるのか。
あるいは、安い労働力を安いままで固定化する方法を見つけ出すのか。

「経済成長」の源泉が安い労働力でしかないのなら、
成長なんて偶然の産物、一過性のものと割り切って別の道を探すのか、
それとも、安い労働力をひたすら求め続ける、食い尽くす、そんなグロテスクな道に固執するのか
現状の日本は後者の道を進んでいるように見える。

 

感性を鈍麻させるな

「武器としての」と銘打つからには、現状にどう立ち向かうかという方向性も一定程度示されている。

食事を例にとって、どんどん感性が貧困化し日本の食文化も瀬戸際に立たされているとしつつ、次のように述べている。

生活レベルの低下に耐えられるのか、それとも耐えられないのか。(略)実はそこに階級闘争の原点があるのではないかと感じます。
(略)
舌が肥えていなければ、必要性の水準も低くなって、「これでいいじゃないか」と言われて、飼い慣らされてしまう。
(略)
そのとき、「それはいやだ」と言えるかどうか。そこが階級闘争の原点になる。

 

前編で言及したように、「必要な」というという範囲には人によってかなり幅がある。
ここに、資本制のシステムを攪乱するポイントがあると著者は指摘する。

 

世の中では、「自分の労働者としての価値を高めたいのなら、スキルアップが必要です」ということになっています。しかし私が主張しているのは、「それは全然違う」ということです。
(略)
人間という存在にそもそもどのくらいの価値を認めているのか。そこが労働力の価値の最初のラインなのです。そのとき、「私はスキルがないから、価値が低いです」と自分から言ってしまったら、もうおしまいです。それはネオリベラリズムの価値観に侵され、魂までもが資本に包摂された状態です。そうではなく、「自分にはうまいものを食う権利があるんだ」と言わなければいけない。人間としての権利を主張しなければならない。


私がこの本を読んでいる過程で、「じゃあ労働者はどうすればいいのか?」という問いに対して、
・労働力のダンピングをやめる
・労働者はいわばカルテルをして、「これ以上の労働条件じゃないと働かない」と、数の力を使って主張していく
といった答えが示されるのではないかと予想していた。

そのため、
「こんなものが食えるか」と言えるだけの感性を取り戻せ
という話になっていったのは少し意外だったが、考えてみれば私の予想として示したものと、実はそう遠くもないのではないか。

人間には根本的に(労働力とは別の次元で)価値があって、これだけの生活をする権利がある。
(食事に限らず、住まい・睡眠時間・余暇・子育て、など)
だから、こんな働き方はおかしい、まともじゃない。
そんな感覚を保つ(あるいは取り戻す)ことが必要だということではないか。

感性を鈍麻させるな。
「経営者目線」なんてものを内面化した、ネオリベクソ野郎に成り下がるな。

乱暴に言えば、本書のメッセージはこのようにまとめられると思う。

白井聡「武器としての『資本論』」を読む【前編】

白井聡「武器としての『資本論』」(2020年、東洋経済新報社)

武器としての「資本論」

真っ赤な表紙でいかついが、平易な言葉で書かれており意外と読みやすい。

 

1.魂の包摂―資本主義を内面化した人間

感性が資本制に包摂される

フランスの哲学者ベルナール・スティグレールは著書『象徴の貧困』において、テクノロジーの進歩による「個」の喪失へ警鐘を鳴らしました。肉体を資本によって包摂されるうちに、やがて資本主義の価値観を内面化したような人間が出てくる。すなわち感性が資本によって包摂されてしまうのだ、と。
剰余価値の生産方法が変革されるほど、包摂の度合は高まり、魂の包摂も広がっていきます。そのような社会を私たちは生きているのです。
(略)
人間の感性までもが資本に包摂されてしまう事態をもたらしたのは、とりあえずは「新自由主義」(ネオリベラリズムもしくはネオリベ)である、と言えるでしょう。

新自由主義とは何か

デヴィッド・ハーヴェイという、英米で活躍しているマルクス主義者の社会学者がいます。日本で多くの翻訳書が出ていますが、彼は新自由主義について「これは資本家階級の側からの階級闘争なのだ」「持たざる者から持つ者への逆の再分配なのだ」と述べています。

なんでそんなことが可能になったのか?

本書では、労働者階級の誇り(例:イギリスの労働者文化や、日本だとデコトラに象徴されるような、独自の文化)が失われ、純然たる消費者になっていく過程が指摘されている。

新自由主義が変えたのは、社会の仕組みだけではなかった。新自由主義は人間の魂を、あるいは感性、センスを変えてしまったのであり、ひょっとするとこのことの方が社会的制度の変化よりも重要なことだったのではないか、と私は感じています。
(略)
資本の側は新自由主義の価値観に立って、「何もスキルがなくて、他の人と違いがないんじゃ、賃金を引き下げられて当たり前でしょ。もっと頑張らなきゃ」と言ってきます。それを聞いて「そうか。そうだよな」と納得してしまう人は、ネオリベラリズムの価値観に支配されています。人間は資本に奉仕する存在ではない。それは話が逆なはずだ。けれども多くの人がその倒錯した価値観に納得してしまう。それはすなわち資本による労働者の魂の「包摂」が広がっているということです。

この「包摂」を代表するのが、低賃金で働かされる労働者でありながら「経営者目線」を内面化しているような人たちではないか。

 

 

2.増殖する資本と、労働との関係

江戸市民は週の半分くらいしか働かなかったのに、現代人はもっと働いている。
人力と牛馬に頼っていた時代と比べて飛躍的に機械化が進んでいるのに、全然楽にならないどころか余計に働くことになっているのはなぜか?

発明はあくまで剰余価値の生産のために、つまり資本の増殖のために行われているのだということです。(略)
「労働時間短縮のためのもっとも強力な手段が、労働者およびその家族の全生活時間を資本の価値増殖に利用されうる労働時間に転化するための、もっとも確実な手段に一変する。」

AIが普及しても、人間は遊んでいられるようになるわけではないだろうと著者は述べている。

労働者にとっての「必要」とデフレマインド

マルクスは労働力の価値を、
「労働力の再生産に必要な労働時間によって規定されている。」
「労働力の所持者の維持のために必要な生活手段の価値である。」
と規定しています。

「必要な」というという範囲にはかなり幅がある。年収200万円で足りるという人もいれば、5000万円必要という人もいる。
日本人だけで言っても、この30年でかなり変わったのではないかと著者は指摘する。

「このくらいもらって当たり前だ」という感覚は、自己評価にも結びついていて、私などは「このぐらい贅沢できて当たり前だろう」という精神を常に保持しようとしています。
ですが、世の中にはデフレマインドが浸透しています。デフレマインドの下では、「必要」の水準が下がっていきます。
(略)
バブル期の日本の労働者などは、必要の水準が非常に高かったわけです。「週に一度高級レストランで食事するぐらい、当たり前だろう。そのぐらいのことがなければ、仕事だってやる気が出ないよ」というのがバブル期の必要水準だったとすれば、今や「別に松屋とか吉野家でいいんじゃないか」という水準になっている。
(略)
問題は、マルクスが言うところの文化的な文脈において、日本の労働者階級は過去30年間、ずっと退却し続けていることです。

 

この部分は、セミリタイア界でも重要な発想だと思う。

節約系セミリタイア者であれば、「年100万円もあれば生きていける」となるだろう。
それは支出を減らし、投資の種銭を作るにも必要な考え方(あるいは体質)だ。

しかし、労働者としての立場では、それだけではだめなのだ。
例えば、「週に3回はビール(発泡酒とかではなく)飲むくらい当たり前」「年に1回海外旅行にいくくらい当たり前」
とかぐらいに思っていた方が、自己評価も給与水準も保たれる。
セミリタイア的には、消費の場面と稼ぐ場面で考え方を切り替え、使い分けていくことが必要なのではないか。
「自分は年100万円もあれば十分生きていけるけど、フルタイムで働くんだったら年収500万円くらいもらえないとやってられないよ」、といった感じだ。

 

労働者の錯覚

資本制では
・自分のための必要労働(賃金に相当するだけの生産を上げるのに必要、労働力の再生産に必要)と、
剰余労働(この部分が、働かせることによって得られる価値。労働者から見れば、働かされているのに支払いを受けられない部分)が
不可分である。
他方、封建制だと、例えば自分の畑を耕す時間と領主の畑を耕す時間に分けられる。

「賃金労働にあっては、逆に剰余労働または不払労働さえも、支払労働として現れる。」
つまり資本家のための労働の部分まで、まるで労働者自身のための労働であるかのごとく錯覚されるわけです。本当は資本に奉仕しているのに、あたかも自分のために働いている気になってしまう。
資本制の特徴はこのように、必要労働と剰余労働が区別できないところにあるのです。そこから、資本のために生産性を上げているのに、自分のために生産性を上げているのだという錯覚も生じてきます。

※下線は引用者による

会社のためのスキルアップなのに、自分のためみたいに錯覚してしまう…ありがちなことだ。どこでも使えるポータブルスキルならまだしも、社内でしか通用しないスキルをのばすことが自分のためみたいに思ってしまう。

 

長くなってしまったので、続きは後編としたい。

休職中の過ごし方ー3か月目・復職期

休職までの流れ→fluffysamoyed.com

1か月目→fluffysamoyed.com

2か月目→fluffysamoyed.com

 

(参考にした書籍)

 

<3か月目:復職期>

生活リズムを戻し、出勤練習をする。

 

毎日の過ごし方

・筋トレを継続
・活動時間をのばす
・起床時刻を早くする(出勤時に近づける)
・勉強する(語学、法律、経済など)
・ブログを書く
・外見に対する興味が少し戻ってきた(日によって化粧をするなど)
・2年ぶりくらいに映画館に行けた

そこそこ活動的に過ごせる。

ただ、寝つきの悪い日が増えた。
仕事に関わる悪夢を見ることがあり、孤立無援・無理難題といった「自分はこういうのが辛かったんだ…」と意識できるような内容で、辛いというより興味深かった。

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治療内容

漢方2種、スルピリド(ほぼ使わず)、ロラゼパム(ほぼ使わず)

復職後に向け、寝坊しても大丈夫な休職中に睡眠導入剤(デエビゴ錠)を試す。
1錠では2時間くらいで起きてしまう日もあり、2錠では寝付く間際の体の力が抜けるときに金縛りみたいな感覚があった。分量は要検討という印象。
日中も眠いといったことはなかったので、復職後も使えそう。

 

 

職場との関係

この時期には、復帰の時期や方法に関する話になってくる。
自分としても、体調は良く、仕事と関わらない限りは元気なので、このままズルズル休むのはむしろ不安という感覚があった。

戻り方、戻れる働き方というのが結局問題になってくる。

また同じような睡眠・食事を削る長時間労働になったら、体調を崩すのは目に見えているから。

 

復職訓練など(復職予定日が決まってから)

・朝、職場の最寄り駅まで行く※
・職場のオフィスビル1階のロビーまで行く
・カフェや図書館で朝~夕方まで勉強・読書・PC作業
・復職したらできなさそうなことをやっておく。ちょっとした遠出など

※電車自体は乗れるのだが、スーツ姿の男性がぞろぞろ同じ方向に通勤していたり、仕事の電話をしていたりするのを見るとちょっと苦しくなった。

働いているのと同じくらいの活動をして、翌日寝込んだりしないか見ながら慣らしていく。

初日はかなり不安で、途中でロラゼパムを服用したし、夕方帰ってきてから少し寝てしまった。

しかし、2日目以降は活動を継続でき、翌日動けない等もなかったので、大丈夫そうという手ごたえが得られた。

 

3か月の休職期間全体を振り返って

・体調面に限っていえば、休めばわりとすぐよくなった。
・精神面では、減薬と、復職のことを考えるのが重なると、症状(寝付けない、のどの詰まる感じ、胃の違和感、悪夢など)が出てきた。
・結局、戻り方が問題。体調を崩すとしたら復職の際なので、対処法を持っておく(この薬を飲めば落ち着くと分かってる、など)が必要だと思った。

休職中の過ごし方ー2か月目・活動期

休職までの流れ→fluffysamoyed.com

1か月目→fluffysamoyed.com

 

<2か月目:活動期>

楽しい活動をする時期。

活動といっても、資格の勉強とか実利的なことではなく、ただ楽しむためのことをする。

(参考にした書籍)

 

 

 

毎日の過ごし方

・家で筋トレをする、できるだけ歩くなど体を少し動かす
・昼間は大体起きてる(短時間の昼寝をする程度)
・1週間ほど帰省
・気になる場所があれば行ってみる(大きめの本屋に行く、スイーツを食べに行く、など)
・元々の体重よりだいぶ増えてきたので、食事を少し節制し、運動する

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治療内容

当初の診断書では休職期間が切れそうだったので、延長の診断書を発行してもらう。
スルピリドの減薬を始める。この月の終わりには、ほぼ漢方のみ。
漢方2種、スルピリド(1日1錠)、ロラゼパム(ほぼ使わず)

 

 

職場との関係

休職直前以来での人事担当者との面談があった。

もう少し休むことにし、休職期間延長の診断書を郵送。

 

まとめ

この時期は時間が経つのが速かった。

「もう一週間?今週なにしてたっけ…」という感覚。

体調面はこの時期には回復していたが、まだ仕事に戻れる気はしない。

仕事のことを考えるとやはり不安が強い。

休職中の過ごし方ー1か月目・ダラダラ期

以前、うつ状態と診断され、3か月間休職していたことがある。
その間の過ごし方を振り返ってみる。(休職までの流れは前回の記事で)

fluffysamoyed.com

 

医師の指示以外に参考にしたのは、森下克也「もしかして、適応障害?」。

休職中の過ごし方や、復帰のしかたなどが詳しく書かれている。

 

<1か月目:ダラダラ期>

とにかく休む、何もしない時期。「何もしない」をする時期。

 

毎日の過ごし方

・寝る
・ゴロゴロする
・横になってスマホを見る
・スーパーなど最低限の外出
・ごく簡単な料理
・気が向いたら、好きなことをする
 気楽な読書*1、手芸など。

・1泊2日の小旅行(ダラダラ期の最後くらい。医師にもよいと言われたので)

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治療内容

・漢方2種

・スルピリド(1日2錠)

・ロラゼパム(不安時のみ)

ロラゼパムはほとんど服用せずに過ごせた。

 

 

職場との関係

全く仕事のことは考えない生活。

休職の手続きのため、担当者とメールしたり書類を郵送する程度。

 

まとめ

食欲や体重が戻り、体調面がかなり回復した。
少し活動して、疲れたなと思ったら昼間でも横になる生活。

気分が沈むこともあるが、何もしなくてもいいのでそこまで深刻なことにはならない。

ただただマイペースにのんびり過ごす。楽しいとか、陽の感情が戻ってきた。

*1:本なんて読めないという人も多いと思う。私の場合はゲーム・アニメ・ドラマにあまり興味がなく、もともと文字を読むのが全く苦にならないので、重厚なものでなければ気晴らしに読めた。