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白井聡「武器としての『資本論』」を読む【後編】

白井聡「武器としての『資本論』」(2020年、東洋経済新報社)

武器としての「資本論」

生かさぬよう、殺さぬよう

働き方改革は労働者のためではない、と著者は看破する。

19世紀の工場法を見れば、今回の「働き方改革」のような体制側による労働者の救済措置が今に始まったものではなく、昔からあったことがわかります。それは資本主義のある種の必然出会って、あまりに搾取しすぎると、搾取する相手がいなくなってしまって(※)、資本主義は成り立たなくなるのだということです。

(※引用者註:長時間労働→人口の再生産ができない→人口減→労働者も消費者もいなくなる)

搾取しすぎると搾取できなくなってしまうから、生かさず殺さず…というところを見計らって継続的に搾取していく。だから財界(=搾取する側)も「働き方改革」なんて言い出すのであって、別に労働者のためではないということだ。

「しょせんは『働かせ方改革』にすぎない」、という批判はこの点を突いているといえるだろう。

 

際限のないイタチごっこ

生産性の向上=労働の価値の低下

果たして生産力を際限なく上げていくことが、人間の幸福に結びつくのだろうか。そういう疑問があるわけです。
一万円の原価がかかるのが当たり前だった商品が、生産性の向上によって8000円でできるようになった。これは消費する側から見れば、同じ商品がより安く手に入るようになったということです。しかし同時に生産する側から見れば、その製品の社会的価値が低落したことにほかなりません。
そして生産されたものの社会的価値が下がるということは、その生産に従事する労働者から見れば、労働の価値が低下するということです。
「生産力が上昇した」「生産性が向上した」とは、「その生産に従事する労働の価値が低下した」ことを意味しているのです。
(略)
私たちは資本制の中に生きているがゆえに、ひたすら生産力の向上を求められ、それに応え続けてきました。それにより物質的に豊かになったという面はあるにしても、反面ではそれによって私たちの労働の価値が下がり続け、同じ生活を送るためにますます長い時間、働かなければならなくなっています。

機械いくら機械が発展しても、たいして楽にならないどころか労働時間が増えているのはこのせいか!

経済成長と「安い労働力」

日本の高度成長が終わった理由として、オイルショックがよく挙げられます。しかし、より本質的だったのは、農村の過剰人口に基づく労働力を使い尽くしたことでしょう。

「金の卵」と呼ばれた農村の若者たちは安い労働力だったが、次第に地方の開発とともに都市との格差が縮まると、「安くなくなってくる」。

農村における過剰人口を吸い上げ、使い尽くした時点で、莫大な剰余価値を生んでいた労働力のプールがなくなってしまった。これこそが高度成長が終焉した本質的な理由ではなかったか。

 

韓国、台湾、中国、東南アジアの経済成長も同じだ。

「イノベーションによって生まれる剰余価値は、たかが知れているのだ」とわかってきます。資本主義の発展の肝は結局、安い労働力にしかないのです。身も蓋もない話ですが、日本の経済発展が頭打ちになっている時代だからそう見えるのではなく、海外も含めて経済発展の歴史を振り返ることで、「結局、すべての国がそうだったのだ」という真実が見えてきます。


海外から労働力を引っ張ってこようというのも、これと同じことだと納得できる。
技能実習生も、古くは徴用工も、「安い労働力」だ。
東南アジアも「安くなくなった」ら、どうするのか。また別の地域から連れてこようとするのか。
日本国内において、かつての都市と農村に匹敵するようなまた別の格差から「安い労働力」が生まれるのか。
あるいは、安い労働力を安いままで固定化する方法を見つけ出すのか。

「経済成長」の源泉が安い労働力でしかないのなら、
成長なんて偶然の産物、一過性のものと割り切って別の道を探すのか、
それとも、安い労働力をひたすら求め続ける、食い尽くす、そんなグロテスクな道に固執するのか
現状の日本は後者の道を進んでいるように見える。

 

感性を鈍麻させるな

「武器としての」と銘打つからには、現状にどう立ち向かうかという方向性も一定程度示されている。

食事を例にとって、どんどん感性が貧困化し日本の食文化も瀬戸際に立たされているとしつつ、次のように述べている。

生活レベルの低下に耐えられるのか、それとも耐えられないのか。(略)実はそこに階級闘争の原点があるのではないかと感じます。
(略)
舌が肥えていなければ、必要性の水準も低くなって、「これでいいじゃないか」と言われて、飼い慣らされてしまう。
(略)
そのとき、「それはいやだ」と言えるかどうか。そこが階級闘争の原点になる。

 

前編で言及したように、「必要な」というという範囲には人によってかなり幅がある。
ここに、資本制のシステムを攪乱するポイントがあると著者は指摘する。

 

世の中では、「自分の労働者としての価値を高めたいのなら、スキルアップが必要です」ということになっています。しかし私が主張しているのは、「それは全然違う」ということです。
(略)
人間という存在にそもそもどのくらいの価値を認めているのか。そこが労働力の価値の最初のラインなのです。そのとき、「私はスキルがないから、価値が低いです」と自分から言ってしまったら、もうおしまいです。それはネオリベラリズムの価値観に侵され、魂までもが資本に包摂された状態です。そうではなく、「自分にはうまいものを食う権利があるんだ」と言わなければいけない。人間としての権利を主張しなければならない。


私がこの本を読んでいる過程で、「じゃあ労働者はどうすればいいのか?」という問いに対して、
・労働力のダンピングをやめる
・労働者はいわばカルテルをして、「これ以上の労働条件じゃないと働かない」と、数の力を使って主張していく
といった答えが示されるのではないかと予想していた。

そのため、
「こんなものが食えるか」と言えるだけの感性を取り戻せ
という話になっていったのは少し意外だったが、考えてみれば私の予想として示したものと、実はそう遠くもないのではないか。

人間には根本的に(労働力とは別の次元で)価値があって、これだけの生活をする権利がある。
(食事に限らず、住まい・睡眠時間・余暇・子育て、など)
だから、こんな働き方はおかしい、まともじゃない。
そんな感覚を保つ(あるいは取り戻す)ことが必要だということではないか。

感性を鈍麻させるな。
「経営者目線」なんてものを内面化した、ネオリベクソ野郎に成り下がるな。

乱暴に言えば、本書のメッセージはこのようにまとめられると思う。