生きるためのセミリタイア

当たり前を疑い、40代セミリタイアを目指す

白井聡「武器としての『資本論』」を読む【前編】

白井聡「武器としての『資本論』」(2020年、東洋経済新報社)

武器としての「資本論」

真っ赤な表紙でいかついが、平易な言葉で書かれており意外と読みやすい。

 

1.魂の包摂―資本主義を内面化した人間

感性が資本制に包摂される

フランスの哲学者ベルナール・スティグレールは著書『象徴の貧困』において、テクノロジーの進歩による「個」の喪失へ警鐘を鳴らしました。肉体を資本によって包摂されるうちに、やがて資本主義の価値観を内面化したような人間が出てくる。すなわち感性が資本によって包摂されてしまうのだ、と。
剰余価値の生産方法が変革されるほど、包摂の度合は高まり、魂の包摂も広がっていきます。そのような社会を私たちは生きているのです。
(略)
人間の感性までもが資本に包摂されてしまう事態をもたらしたのは、とりあえずは「新自由主義」(ネオリベラリズムもしくはネオリベ)である、と言えるでしょう。

新自由主義とは何か

デヴィッド・ハーヴェイという、英米で活躍しているマルクス主義者の社会学者がいます。日本で多くの翻訳書が出ていますが、彼は新自由主義について「これは資本家階級の側からの階級闘争なのだ」「持たざる者から持つ者への逆の再分配なのだ」と述べています。

なんでそんなことが可能になったのか?

本書では、労働者階級の誇り(例:イギリスの労働者文化や、日本だとデコトラに象徴されるような、独自の文化)が失われ、純然たる消費者になっていく過程が指摘されている。

新自由主義が変えたのは、社会の仕組みだけではなかった。新自由主義は人間の魂を、あるいは感性、センスを変えてしまったのであり、ひょっとするとこのことの方が社会的制度の変化よりも重要なことだったのではないか、と私は感じています。
(略)
資本の側は新自由主義の価値観に立って、「何もスキルがなくて、他の人と違いがないんじゃ、賃金を引き下げられて当たり前でしょ。もっと頑張らなきゃ」と言ってきます。それを聞いて「そうか。そうだよな」と納得してしまう人は、ネオリベラリズムの価値観に支配されています。人間は資本に奉仕する存在ではない。それは話が逆なはずだ。けれども多くの人がその倒錯した価値観に納得してしまう。それはすなわち資本による労働者の魂の「包摂」が広がっているということです。

この「包摂」を代表するのが、低賃金で働かされる労働者でありながら「経営者目線」を内面化しているような人たちではないか。

 

 

2.増殖する資本と、労働との関係

江戸市民は週の半分くらいしか働かなかったのに、現代人はもっと働いている。
人力と牛馬に頼っていた時代と比べて飛躍的に機械化が進んでいるのに、全然楽にならないどころか余計に働くことになっているのはなぜか?

発明はあくまで剰余価値の生産のために、つまり資本の増殖のために行われているのだということです。(略)
「労働時間短縮のためのもっとも強力な手段が、労働者およびその家族の全生活時間を資本の価値増殖に利用されうる労働時間に転化するための、もっとも確実な手段に一変する。」

AIが普及しても、人間は遊んでいられるようになるわけではないだろうと著者は述べている。

労働者にとっての「必要」とデフレマインド

マルクスは労働力の価値を、
「労働力の再生産に必要な労働時間によって規定されている。」
「労働力の所持者の維持のために必要な生活手段の価値である。」
と規定しています。

「必要な」というという範囲にはかなり幅がある。年収200万円で足りるという人もいれば、5000万円必要という人もいる。
日本人だけで言っても、この30年でかなり変わったのではないかと著者は指摘する。

「このくらいもらって当たり前だ」という感覚は、自己評価にも結びついていて、私などは「このぐらい贅沢できて当たり前だろう」という精神を常に保持しようとしています。
ですが、世の中にはデフレマインドが浸透しています。デフレマインドの下では、「必要」の水準が下がっていきます。
(略)
バブル期の日本の労働者などは、必要の水準が非常に高かったわけです。「週に一度高級レストランで食事するぐらい、当たり前だろう。そのぐらいのことがなければ、仕事だってやる気が出ないよ」というのがバブル期の必要水準だったとすれば、今や「別に松屋とか吉野家でいいんじゃないか」という水準になっている。
(略)
問題は、マルクスが言うところの文化的な文脈において、日本の労働者階級は過去30年間、ずっと退却し続けていることです。

 

この部分は、セミリタイア界でも重要な発想だと思う。

節約系セミリタイア者であれば、「年100万円もあれば生きていける」となるだろう。
それは支出を減らし、投資の種銭を作るにも必要な考え方(あるいは体質)だ。

しかし、労働者としての立場では、それだけではだめなのだ。
例えば、「週に3回はビール(発泡酒とかではなく)飲むくらい当たり前」「年に1回海外旅行にいくくらい当たり前」
とかぐらいに思っていた方が、自己評価も給与水準も保たれる。
セミリタイア的には、消費の場面と稼ぐ場面で考え方を切り替え、使い分けていくことが必要なのではないか。
「自分は年100万円もあれば十分生きていけるけど、フルタイムで働くんだったら年収500万円くらいもらえないとやってられないよ」、といった感じだ。

 

労働者の錯覚

資本制では
・自分のための必要労働(賃金に相当するだけの生産を上げるのに必要、労働力の再生産に必要)と、
剰余労働(この部分が、働かせることによって得られる価値。労働者から見れば、働かされているのに支払いを受けられない部分)が
不可分である。
他方、封建制だと、例えば自分の畑を耕す時間と領主の畑を耕す時間に分けられる。

「賃金労働にあっては、逆に剰余労働または不払労働さえも、支払労働として現れる。」
つまり資本家のための労働の部分まで、まるで労働者自身のための労働であるかのごとく錯覚されるわけです。本当は資本に奉仕しているのに、あたかも自分のために働いている気になってしまう。
資本制の特徴はこのように、必要労働と剰余労働が区別できないところにあるのです。そこから、資本のために生産性を上げているのに、自分のために生産性を上げているのだという錯覚も生じてきます。

※下線は引用者による

会社のためのスキルアップなのに、自分のためみたいに錯覚してしまう…ありがちなことだ。どこでも使えるポータブルスキルならまだしも、社内でしか通用しないスキルをのばすことが自分のためみたいに思ってしまう。

 

長くなってしまったので、続きは後編としたい。