ヒトは自らを家畜化したといえるのではないか?というのが以前の記事。
本書は、ヒトが植物を飼いならしたのか、植物がヒトを飼いならしたのか…
国家とは、野蛮人とはどのような存在だったのか…歴史の「常識」を疑う一冊。
○国家は脆弱なものだった
国家は、どれもこのうえなく強力な支配をしていたように記述されているのでそう思いがちだが、そんな恐るべき巨大海獣(レビアタン)になるのはごく稀な、しかもごく短いあいだのことだった。
ほとんどどの地域でも、王の空位期間や分裂時代、あるいはまったく記録のない「暗黒時代」の方が一般的で、確固とした有効な支配の方が少なかった。
(略)
世界の大半では、国家は、勢いが盛んだったときでさえ、季節限定の制度だった。
「崩壊」は、こうしたプロセスに適用することばとしては大仰すぎる。巻き込まれた側の臣民にとってはごくふつうのことで、単に分散して定住地と生業ルーチンを整理し直すという。お馴染みのパターンだっただろう。それを「崩壊」という悲劇として経験したのは、国家のエリート層だけだったのではないだろうか。
「国家」は現代人が想像するよりずっと脆弱で、あって当たり前の存在ではなかったようだ。
今ではすべての人間がどこかの国に所属している、国民であることが前提となっているが、実はごく最近の限定的な現象であることがわかる。
○国家の「崩壊」と「暗黒時代」を問い直す
崩壊万歳
崩壊という状況の描き出すものが、複雑で脆弱で、たいては抑圧的な国家が、小さくて分散的な小片へと拡散していくことであるのなら、なぜ「崩壊」を嘆き悲しむのだろう。
(略)「空白」期は、多くの国家の臣民にとっては束の間の自由と人間福祉の向上を意味していたと、強く主張することができる。
古代国家の中心地の「崩壊」は。それに伴う多大な死亡者数など、多くの人間悲劇を暗示するが、多くの場合、それは間違いだ。たしかに、侵略や戦争、あるいは伝染病が大量死の原因になることもあるが、それと同じくらいに、ほとんど人命が失われることなく国家センターが放棄されることもあった。そうしたケースは人口の再分配と考えた方がいいし、戦争や伝染病の場合も、残っていれば失われた命が、都市を放棄して田舎へ逃げだすことで救われたというケースが多い。
(略)
都市中心部の放棄という事実そのものを野蛮と暴力への下降だと決めつけることはできない、と言いたいのだ。
崩壊のエピソードに続く時代は、たいてい「暗黒時代」とよばれるようになる。(略)それは誰にとっての、どんな視点からの「暗黒」なのか、と。(略)どう控えめに見ても、ただ国家の中心地で人口が減少し、巨大建築や宮廷記録が存在しなくなったというだけで、その時代を暗黒時代と名づけ、文明の光が消えたのと同じだと理解するだけの正当な理由はないと思われる。
単に記録や遺跡が残っていないだけで「暗黒」というのはおかしい、という問いかけである。
歴史というのは国家の歴史であり、どうしても国家の側から見たものになる。だから、はっきりした国家がない時期は歴史がない、文化など何もない混沌、混乱期みたいに扱われてしまう。
国家の側から語られるから、暗黒・混沌、暴力と飢えから、国家ができると秩序が生まれ安定した生活が送れるかのようなイメージがあったのではないか。
○穀物と課税のしやすさ
穀物にしかない利点を理解するためには、自分が古代の徴税役人になったと想像してみればいい。その関心は、なによりも収奪の容易さと効率にある。
穀物(水稲、コムギなど):地上でほぼ同時に熟す。貯蔵や運搬もしやすい。徴税役人は、収穫時期に行けば一度ですべてを得られる。
イモ類(キャッサバなど):1年で熟すが、そのまま1~2年地中に残しておける。掘り出さないといけない。運搬時に嵩張るし、腐りやすい。
確かに日本でもコメが課税の中心だったし、これはイメージしやすい。
徴税のしやすさというと、現代の水稲にあたるのは給与所得者ではないか。源泉徴収で毎月とりっぱぐれがない。
政府が昨今、個人商店や零細企業、家族経営などのスモールビジネスを潰して、大きな企業で働く労働者に移行させたがっているように見えるのも、課税のしやすさにあるのでは?と勘繰ることができる。
○余剰と強制
農民層は――基本的なニーズを満たすだけのものがあるとして――エリート層に収奪されるような余剰分をわざわざ自分から生産しない、生産させるには強制が必要だということだ。
(略)なんらかのかたちでの不自由な強制労働(略)を通してしか余剰はもたらされない。
セミリタイアした人が非課税の範囲内で収入を得ていくことを連想した。
○メガビタミン、パレオダイエット
「農業女性」に認められる栄養不足(女性は月経で失血するので最も影響を受けやすい)の大半は、鉄不足によるものだったようだ。(略)穀物食は、必須の脂肪酸を欠いているだけでなく、実は鉄分の吸収を阻害してしまう。こうして、後期新石器時代に初めて穀物食への集中度が急上昇した結果、鉄欠乏性貧血が登場し、見間違いようのない法医学的な特徴が骨に残ることになったのである。
鉄・プロテイン不足があらゆる不調の原因という考え方がある。パレオダイエットは、旧石器時代の食生活に戻って、当時食べられてなかったようなもの(特に穀物)は食べないというものだ。いずれも本書の立場と親和的である。
農業と穀物食の普及で人類は飢えから解放されたかのように思われるが、本書によれば農業で得られる栄養素は労力に見合わないものだった。大変なわりに狩猟採集より栄養面で劣る、いわば「コスパの悪い」ものだった、という指摘は新たな視点だと思った。
また、 農耕が始まってからも、かなり長い期間、完全移行はせずに狩猟採集と併存していたという。確かにその方が納得できる。食糧確保は一点集中より、いろんな方法を残しておいた方が気候などにも対応でき安全だ。いきなり農業に一本化したとは考えにくい。副業みたいなものか。
○野蛮人とは
野蛮人の大多数は、遅れたり取り残されたりした原始人ではなく、むしろ国家が誘発する貧困、課税、束縛、戦争を逃れて周縁地へ逃げてきた政治難民、経済難民だったことになる。
世界史の教科書では、周縁の民、特に遊牧民は襲ってくる凶暴な奴らというイメージで語られていた。「匈奴」とか、字面からして残虐な野蛮人という感じだ。でも、教科書には、本書にあるような国家による収奪とか捕虜、奴隷といった話はあまり出てこなかった。重税の話などはあったが。
本書によれば、戦争は捕虜=奴隷、マンパワー獲得を大きな目的としていた。国家の基盤はマンパワーだからだ。農業などに従事する臣民と、過酷な労働(船を漕ぐ、岩を切り出す)に従事する奴隷がいないと成り立たない。
そういうところから逃れ、距離をとった人々を国家の側から「野蛮人」と扱っただけで、べつに未開人というわけではなかった。
○まとめ
一般的な「歴史」というのは国家の側から見た歴史にすぎない、ということが本書を読んでよく分かった。できれば自分も国家から距離をとって隠者みたいに生きたい。