生きるためのセミリタイア

当たり前を疑い、40代セミリタイアを目指す

寝たいときに寝て、起きたいときに起きる生活~高村友也「自作の小屋で暮らそう Bライフの愉しみ」感想

 

 

 

概要

セミリタイア界では有名な本書。
雑木林の中の土地を買って、自力で小屋を建てて暮らす。
水道や電気は引かずに、川に汲みに行き、ソーラー発電を利用する。トイレはコンポスト。

BライフのBはBasicだが、行き当たりばったりのBabyish(幼稚な)ライフだとも著者は言っている。

セミリタイア生活の住居としては、
小屋暮らし派安アパート派、そして中古一戸建て派(セルフリフォームする場合もある)にざっくり分けられると思う。
本書は小屋暮らし、しかもセルフビルド。

自然も感じられてマイペースで、すごく楽しそうだ。
自力で建てるとなると怪我をしそうで、私の場合はあまり現実的ではないかもしれないと思ったが、
薪ストーブで一気に生活が変わっていくところ(文庫版で追加された部分)など、読んでいてワクワクした。

以下では、印象に残った箇所を挙げていきたい。

自由な睡眠

寝たいときに寝て、起きたいときに起きる。この「自由な睡眠」が可能な時点で、上質な睡眠はほとんど保証されているようなものだ。どれだけ高級ベッドと高級枕に睡眠グッズなるものを備えたとしても、自由な睡眠とは比べ物にならない。
(略)
朝目覚まし時計の不快音で起こされることほどその日一日の体調と気分を台無しにすることはない。
面白い本に出会えば二日間一睡もせず、次の日は丸一日寝ていればいい。天気がよく空気がカラっとした日には朝早く目覚めるし、前日夜食を摂り過ぎていれば午後まで寝ていることもある。(略)
また、何気ないときに、コテン、と死んだように眠るのもいい。(略)
短眠がいいとかたっぷり寝たほうがいいとか、朝型がどうとか夜型がどうとか、そうしたご高説を全て吹き飛ばすだけの破壊力を、自由な睡眠は持っている。いつどれだけ寝るべきかは、体が一番よく知っているわけで、それに従えばいいだけである。

うらやましい…!好きなときに好きなだけ寝る。これほどの自由があるだろうか。

自分の生活を顧みれば、平日の朝の「不快音」はもちろんのこと、休日ですら、補助的にではあるがアラームを使って起きている。休日が限られているから、「有効活用」する必要があるのだ。なんという不自由さか。

コロナ禍でむしろ売れているものに寝具があるらしいが、睡眠時間やタイミングに制限があるからこそ「睡眠の質」にこだわらざるを得ないのではないか。

できるだけ早く、著者のように自由な睡眠を手に入れたいものだ。

 


テレビのくだらなさ

東京でテレビを見ていた頃は、余りのくだらなさと、情報の嘘っぽさ・押し付けがましさ、何人もの人間のフィルターを通され価値付けされた上での放送に辟易して、窓から放り投げたくなることもあったが、それはそういうものと距離を置けない自分への苛立ちの裏返しでもあって、そういうことも含めて、テレビ劇場だと思って見ることができれば、ジャンジャン映像が入ってくるというのはやはり凄いことだと思う。
と言いつつも、既に長らくアンテナとチューナーは無用の長物と化している。


正直、テレビ番組なんて、著者のような東大の哲学科卒の人に向けて作られているわけがないので、著者にとってはくだらなくて当たり前である。見ていた頃があるということがむしろ意外だった。東大卒の哲学者などという少数派に向けて作るわけがない。採算がとれない。

私は10数年前からテレビのない暮らしをしているが、当時は周囲の人に驚かれた。今だと、「ふーん」程度ではないか。

10代の頃、「めざましテレビ」を観ていて、疑問だらけだった。

「女子アナ」は明らかに外見で選ばれているアイドルみたいな人たちなのに、同じ画面におさまるおじさんたちはどうして全然きれいでもなんでもないんだろう。バランスが悪いし、画面のきれいさが結局プラマイゼロになっていて、何がしたいのかわからない。

なんで全国の人に、東京の原宿の情報を届ける必要があるんだろう。原宿とか渋谷とか、遠く離れているのになんでそんな細かい地名まで自分は知っているんだろう。おいしそうだけど食べに行く機会のないスイーツの、その店で一番人気のメニューがどれかなんて情報が蓄積されていく。

朝やってたニュースが昼も午後も夕方も繰り返される。テロップや出演者の表情などで強調される情報。こういう反応がスタンダードですよ、とばかりに増強されていく。

思い出しただけで押し付けがましい。もういいよと言いたくなる。

だいぶ脱線したが、クワガタ(表紙にもいる!)が入ってくるような楽しい小屋に住んでたら、そりゃあテレビなんて無用の長物になるだろうと思う。

 


ゴロゴロしていたい

最後に、「自由」という動機がある。言葉にしてしまうとこれほど色褪せてしまう概念も珍しく、できれば自分からは口に出したくない言葉だが、これを挙げなかったら嘘になってしまう。
筆者にとって、「寝る」あるいは「ゴロゴロする」というのは、自分からは口にしたくない「自由」の隠語でもある。ありがたいことに、「自由」と「ゴロゴロする」とは、その言葉の使用のタイミングがピタリと一致するのである。おそらくそれは、一生寝ていてもよいという自由を欲しているからであろう。
(略)
では、その自由であなたは何を生み出したのか、芸術か、発明か、科学技術か、と問われるかもしれないが、「……のための自由」なんて語義矛盾も甚だしい。何も生み出す必要などない。ただ生きて、意識があって、自由に考えることができればそれでいい。

 また寝る話かと思われそうだが、やはり私は、好きに睡眠をとる、ゴロゴロするということにものすごく魅力を感じる。

寝ていたい。好きなだけ。

たったそれだけのことができないって何なのか、と思ってしまう。

そして、著者の「何も生み出す必要はない」という言葉に心強さを感じる。

リタイアして何がしたいのか、何を生み出すのか。隠遁生活の中で執筆や創作にいそしむというのもいいけど、何もしない自由というのは自由の重要な部分を占めていると思う。

小屋暮らしだと水を汲みに行ったり薪を拾いに行ったり、小屋の修繕をしたり、それなりにやることがあるので、「何もしたくない願望」を満たすのは安アパート暮らしの方かもしれない。しかし、本書の自分で何でもやる小屋暮らしのワクワク感も捨てがたいので、セミリタイア生活の候補として持っていたい。