生きるためのセミリタイア

当たり前を疑い、40代セミリタイアを目指す

浪費する労働者ー「じゅうぶん豊かで、貧しい社会」

私はよく疑問に思うのだが、

・皆いったい何のために、こんなにしんどい思いをしながらお金を稼いでいるのだろうか。

・そこまでしてせっかく稼いだお金を、なぜ大して必要でもないものに使ってしまうのだろうか。

「豊かさ」についてヒントが得られそうな気がして、
ロバート・スキデルスキー&エドワード・スキデルスキー「じゅうぶん豊かで、貧しい社会 理念なき資本主義の末路」
を読んでいる。

 

 

まだ読み終えておらず、思想史的な部分も多くて理解しきれていないのだが、
印象に残った言葉があった。

コンシューマリズムは、念願の余暇がいっこうに手に入らない労働者をなだめる装置と位置付けられる。彼らの欲求不満を解消し、おとなしくさせておくために、愚にもつかない役立たずの商品が次々に供給されるという仕掛けだ。
ショッピングには「リテール・セラピー」というしゃれた名前がついているが、これは不快で気の滅入ることをやり遂げたご褒美という意味で正鵠を射ている。人為的なニーズが創出されるからこそ、労働者は勤労意欲を保っていられるのだ。
ショアは「新しい消費政策に向けて」と題する論文の中で、「経済には労働を減らしモノを減らす道もあるはずだし、人々は長時間労働・多消費よりそちらを好むだろう。だがその道が閉ざされているなら、人々がたくさんモノを買うという事実は、それだけでは消費欲の証拠とはなり得ない。
仕向けられたとおりの行動をとっているだけなのかもしれない」と述べた。
別の言い方をすれば、人々は選考を環境に順応させ、欲しいモノを手に入れるのではなく、手に入るモノを欲しがるようになっている。

※改行・強調は引用者による

 

疲れ切って気力も体力もなく、自由になる時間もほとんどないと、
受動的でインスタントな楽しみを求めてしまう。YouTubeを観るとか、ネットショッピングをするとか。
買い物は、自分が本当にやりたいことと比べれば、ずっとお手軽だ。
海辺の町でのんびり暮らしたいとか、犬を飼って野山を駆け回りたいとか、そういう願いはすぐには叶えられない。
でも、モノを買うことは布団の中からでも簡単にできてしまう。

そういうお手軽な代償行為みたいな感じで、ストレスを貯めて得たお金を浪費してしまって、また稼いで、…というループに陥ってしまう人が多いのではないか。
私自身、以前よりは浪費を回避できるようになったが、残業続きだと深夜にネットで買い物して、普段より多めにカートに入れてしまうことがある。
ここを抑えていくことが結局は自分自身を大切にすることでもあるし、資産を増やしてセミリタイアに近づく道でもあると思う。
「欲しい」と思ったときに、その気持ちの奥底にはどんな願望が隠れているのか。モノと関係があるかもしれないし、全然別のところにあるかもしれない。
一度立ち止まって、自分の気持ちを掘り下げていくのがいいのではないか。