生きるためのセミリタイア

当たり前を疑い、40代セミリタイアを目指す

あらゆるジョブがブルシット!栗原康「サボる哲学 労働の未来から逃散せよ」

栗原康「サボる哲学 労働の未来から逃散せよ」(NHK出版新書) 

 

この本の著者、栗原康の本は「村に火をつけ、白痴になれ――伊藤野枝伝」、「はたらかないで、たらふく食べたい」を読んだことがある。
「はたらかないで、たらふく食べたい」というタイトルが最高だ。

最新刊である本書も、帯に引用された
「ブルシット・ジョブとそれ以外のジョブがあるのではない。あらゆるジョブがブルシットなのだ。
の一言に痺れて購入した。

 

仕事上の予定のために、少し待てば弱まるだろうゲリラ豪雨みたいな大雨の中にわざわざ出て行ったり、
酷暑の日の、よりによって一番暑い昼過ぎの時間帯に外出したり、
そんな「仕事だから」で済まされる割に合わないこと、身体に危険の伴うことにうんざりしている。

仕事じゃなければそんな天気の日はおとなしく家にいて、少しして治まってから外出すればいいことなのに。
仕事に対するヘイトがどんどん溜まっていく。
あらゆるジョブがブルシット。この一言に尽きるのだが、本書で他に印象に残り、読みながら首を縦に振りまくったのが次の箇所である。

じつは人生でひと月だけ就活をしたことがある。あれは30代半ばのこと。(中略)予備校バイトをやったことがある。人生初、履歴書を書いた。これがもう未来志向。なにせ、自分の人生が予備校で教えるためのものであったかのように装わなければならないのだから。
「わたしが大学で政治学を学んできたのは、貴校で教鞭を振るうためであったのです」
(中略)こうして歴史は捏造される。現時点から都合よく自分の人生が書きかえられるのだ。むろんあからさまなウソだと、すぐばれる。だから、ほんとうにそうおもっているかのように努めなければならない。(中略)捏造した歴史を自分の歴史だと思いこむ。

 (※太字は引用者による)

自分の人生の過去の出来事、学生時代やってきたことや前の職場でやってきたことは、すべてその仕事のためだった。そこにつながる一本の道だった。
そんな都合のいいエピソードがみんなにあるわけないのに、それがないと説得力がないみたいになってしまう。捏造だ。
それっぽい話、それっぽい理由って歴史に関する俗説とかにもありがちだ。分かりやすいところに飛びついてしまうのだ。

こういう嘘くささ、それを真顔で言わないといけないから面接が気持ち悪くて苦手だった。
そこに就職するために生きてきた、そんなわけないだろう。
生きていくためにお金が必要で、お金のためにどこかに就職しよう(就職以外の方法もあるのだが)。それだけだ。
実はそこまで働かなくても生きていくことはできるのだけど。

「仕事だから」で自分を騙しきれない自分だからこそセミリタイアを目指し、こういった本を読んで考えを固めていく必要がある。
本当は、仕事で忙しくしてる自分が大好きみたいな人になれたら楽になれるのに。ワーカホリックな人の真似をしてみたら自己洗脳とかできないかな?と思うのだがうまくいかない。
部活すら合わなかった自分、何もしない時間が大好きな自分には無理なようだ。
ある意味諦めて、自分の偏りを受け入れ、粛々と蓄財と投資に励むのが私には合っている。