生きるためのセミリタイア

当たり前を疑い、40代セミリタイアを目指す

おおたとしまさ「ルポ 教育虐待」

おおたとしまさ「ルポ 教育虐待 毒親と追いつめられる子どもたち」(ディスカバー携書、2019年)

ルポ教育虐待 毒親と追いつめられる⼦どもたち (ディスカヴァー携書)

自分自身が明らかに受けていたとか、自分が子育てしているとかではないのだが、「教育虐待」は興味のあるテーマだ。
時々、親が子を、子が親を殺す事件にまで発展してしまってニュースになることもある。また、秋葉原殺傷事件の犯人が母親から苛烈な管理教育を受けていたこともよく知られている。

 

教育ママの思い出

子どもの頃少し交流があって、時々思い出す姉妹がいる。
適当にぼかして書くが、父は地元の名士、母は専業主婦で、いわゆる教育ママ。姉妹にいろんな習い事や勉強をさせている。
華やかな人なのだが、いつもイライラしている感じだった。
妹は日常生活に支障が出るくらいの体型なのに、舞踊系の習い事に通わされていた。
想像でしかないが、母親が憧れていたのではないか?そういう特殊な世界は、本人がすごく楽しくてやりたいのでなければ、苦痛でしかないのではないか?

姉は名門校に進学したと聞いた。冷めた表情で母親の批判をするのを見ていたので、姉の方はあまり心配していない。面従腹背を続けて進学により親元を離れる、とかもできそうだからだ。
しかし、いつもぐずっていて楽しそうにしているところを見たことがない妹は、一体どうなったのか?病気になっていないか?と勝手に心配している。

印象に残った記述

本書によれば、教育虐待に至る親には大きく2タイプがあるという。
①親が学歴コンプレックスを持っている場合と、
②親自身が高学歴の場合だ。
また、両者のハイブリッド(例えば、東大に落ちて慶應に行った)もいるらしい。これが一番恐ろしい気がする。

・親自身はどうなんだ?

わが子が弱いということを許せない弱さ

その男の子は涙をぽろぽろと流しながら、「自分は社長になろうなんて考えてもいないくせに、なんで僕にだけ一番になれと言うんだよ」と、父親に対する不満をぶちまけた。
息子から見て父親は、「社長を目指す」と宣言するような野心のある人間ではない。それなのに息子には「東大に行け」とか「一番になれ」とかそんなことばかりを言う。「お父さんは自分にできないことを僕にだけやらせようとしている」と涙ながらに訴えたのだ。

出典:おおたとしまさ「ルポ 教育虐待 毒親と追いつめられる子どもたち」(ディスカバー携書、2019年)

本書の読者で、これを読んでドキッとした親は多いのではないか。この男の子は中3とのことだが、鋭い指摘である。自分はどうなの?ということだ。

・教育と人材育成の違い

ケヤキにはケヤキの育て方があり、松には松の育て方がある。それぞれ適切な環境を与えられれば、小さな種子は自らの力で芽吹き、自らの力で根を張り、自らの力で枝葉を伸ばし、大木となる。それが教育。
つまり教育とは、それぞれの人間の特性を見極め、好ましい環境を与えること。だから、「どんな教育がベストか」を論じることには意味がない。「どうやったら多様な人間が育つか」を論じるべきだ。
一方、「人材育成」とは、なんらかの目的に合う材料として一定のスペックをもつ状態に人間を加工 、、 すること。どうやったら効率よく「人材」を育成することができるかに主眼が置かれる。
注意すべきは、「食材」も「木材」も、一般的には「材」になったときにはもう死んでいるということだ。人間の場合、「人材」と呼ばれても本当に殺されるわけではない。しかし「材」としての「役割」にとらわれてしまっては、「生き物」としての「生き様」を失う。「材」となったものにはすでに「生きる力」はない。
そして「人材育成」という言葉と「教育虐待」という言葉は、どちらも指導を受ける側の意思が後回しにされている点が共通している。つまり「人材育成」の概念は「虐待」に直結しやすい。

出典:おおたとしまさ「ルポ 教育虐待 毒親と追いつめられる子どもたち」(ディスカバー携書、2019年)

※下線は引用者による

下線部分に目が覚める思いがした。名言である。「人材」になったら死んでるみたいなものだ、恐ろしい。

教育虐待は勉強だけじゃない

本書を読んで思い出した文章がある。

「私の知り合いに、小さい頃から両親にヴァイオリンをやらされてた子がいるの。藝大器楽科ヴァイオリン専攻にも合格して、四年間ちゃんとヴァイオリンをやり続けた。間違いなく才能はあったと思う。それも抜群にね」

「その人はどうなったの?」

「卒業してすっぱりヴァイオリンをやめたわ。これで義理は果たした、って言ってね…」

出典:二宮敦人「最後の秘境 東京藝大」(新潮社、2016年)

 東京藝大に入れるぐらいの時間と労力を、やりたくないことに注ぎ込むなんて相当もったいない。。子どもは親と別人格ということは、すぐ忘れられてしまう。

 

勉強できる子は、ほっといてもやる

やたら教育熱心な親に対し私が疑問に思うのは、勉強させる親自身、勉強とは「やりたくないけど我慢してやるものだ」と思っているのではないかということだ。
何のために勉強するのかと問われれば、「将来のため」とか言うんだろう。
これは想像だが、灘中に合格するような子たちの中には、言われたから勉強するとかじゃなくて、勉強自体が楽しいと思っていて自分がやりたいからやっている層が多いのではないか。
嫌々やっていたら続かないと思う。例えば昆虫マニアで、図鑑で調べたりするのが楽しくて…とかそういう感じ。
勉強が楽しいと思う子、学問に向いている子は、ほっといても勉強する。無理にやらせても、ある程度までは行けるだろうけど限界が来るだろう。

子どもって全然自由じゃない

一般的には「子どもは自由でいいよな」と言われたりするように、子どもの頃にあった自由さを大人になると失うと考えている人も多い。
しかし、私はこの考え方には反対である。たとえ社畜と自称するサラリーマンであっても、子どもよりはずっと自由を手にしている。

幼児虐待は言うまでもなく、中学生が追いつめられた末に死を選ぶようなケースでも思うのは、子どもにはほとんど自由がないということである。
大人だったら一人で遠出するなど何でもない行為だが、子どもはそれをやると「保護」されてしまう。
住むところも、今日何を食べるかすらも決めることができない。
どんな親の元に生まれるかという運100%の環境で、家庭と学校くらいしか居場所はなく、虐待やいじめを受けても大人のように転職などで環境を変えることが困難である。
これのどこが自由なのか。

「出て行け」は「死ね」と同じ意味

小さなころから「言うことを聞かないのなら出て行きなさい!」と言われて育ってきた。子どもが家を追い出されたら、それはすなわち死を意味する。つまりその子はそれまでずっと「言うことを聞かないのなら死になさい!」というメッセージを受けとり、脅されながら育ったのだ。

出典:おおたとしまさ「ルポ 教育虐待 毒親と追いつめられる子どもたち」(ディスカバー携書、2019年)

本書で紹介される子どもシェルターでのエピソードである。

親子関係にはそもそも歴然とした力関係がある。家庭が安全であるという前提(幻想)で、なんでも家庭でうまくできるだろうという期待(幻想)こそが、弱者に対するしわ寄せを生み、最悪の場合悲惨な事件に至るのだと思う。

もういい加減、家族幻想は捨てるべきだ。

プライドはあるけど、そこにはない

「プライド」というものは、仕事と絡めて語られることが多い。
「自分の仕事にプライドを持て」「○○としてのプライド」、やる気がなさそうな労働者に対しては「プライドはないのか」など。

プライドとは誇り、自尊心と訳される。

しかし、労働は自尊心を削ってくることも多い。労働者はプライドなんてあまり要らないというか、あるとかえってしんどい気もする。仕事と自己実現が結びついている人はそれでいいと思うし、羨ましいのだが。

「相手のプライドを傷つけないように、こういう言い方にしましょう」といった他者のプライドに配慮する文言もよく見かける。
そこで疑問に思うのは、プライドってそんなに傷つくか?ということである。

なんかテーブルの端っこみたいなグラグラのところに置いてあるのだろうか?
大事で傷つけたくないものなら、そんなところに置いておいてはいけない。

もちろんあえて傷つけようなんて思わないし、配慮するのだが。

プライドはあるけど、そんなところにはないだけ。
私のプライドは、赤の他人の手の届くところには置いてない。だから他人の言葉でプライドが傷つくことはあんまりない。

プライドと他人って本来関係ないものなのでは、と思う。

身も蓋もない女性向けサバイバル術指南「馬鹿ブス貧乏で生きるしかないあなたに愛をこめて書いたので読んでください。」

藤森かよこ「馬鹿ブス貧乏で生きるしかないあなたに愛をこめて書いたので読んでください。」
(KKベストセラーズ、2019年)

 

 

ラノベにありそうな長いタイトル。
ブスの処世術みたいな本って時々出てくるし、「なんでそこまでして『つがい』にならないといけないのか?」とイラつくものもあったりするけど、本書はジェーン・スーが帯を書いていて、一味違いそうだと興味を持って読んでみた。

まず、表紙のイラストの女性たち、特に部屋着の人たちが絶妙にだらしなくていかにも実際にいそうだ。そういうよくいる感じの人に向けた本ですよ、ということだと思う。

目次の時点で刺激的。ごく一部を抜粋する。

苦闘青春期(37歳まで)

・本格的ブスは美容整形手術を受ける
・青春期こそ外観改良の費用対効果は高い
・とりあえず男を見たら性犯罪者と思う

 

過労消耗中年期(65歳まで)

・老年期に入るまでに自分の性欲を消費しておく

 

匍匐前進老年期(死ぬまで)

・馬鹿は中年期の終わりまでには死ねない

 

などなど。

著者の「馬鹿ブス貧乏」の定義が独特というか、大抵の人は含まれるであろう定義になっている。

馬鹿:一を聞いて一を知るのが精一杯
ブス:顔やスタイルで食っていけない
貧乏:賃金労働をしないと食べていけない

女性の生き方系って、「玉の輿に乗る」系か、かなり意識高い人向け(シェリル・サンドバーグのLEAN INみたいな)か、
あとはもうキラキラ自己啓発、スピリチュアル系とかで、あんまりしっくりくるのがないと思う。
本書は、地に足のついた、女性向けサバイバル指南本。

印象的な箇所を少し紹介すると、

パーリーピーポーといっても、せいぜいは飲み放題三千円で不味いもの食べて楽しいフリしているだけだ。持ち寄りのポテトチップスの袋を開けて食べているだけだ。話す内容も空虚な時間つぶしだ。そんな集団行動につきあうぐらいなら、ひとりでいるほうがいい。

著者は一人でいることを肯定している。自分が思っていることを言ってくれた感じがした。

まともな男は50人中14人しかいない。

「根拠はないけど50人に一人はサイコパス、二人は痴漢、三人は…」と主観でだいぶテキトーに計算していってこの数字になるのだが、まぁ実際そんな感じじゃないだろうか。言い切りっぷりが清々しくて笑った。

女の人生は、このような危機(※引用者註:性犯罪や望まない妊娠のこと)に満ち満ちている。だから女は鍛えられる。日本のような社会で育つと頭が悪くなりやすいが、それでも女性のほうが男性よりは本格的馬鹿が少ないように見受けられる。
それは、やはり女性の人生のほうが厳しいからだ。特にブスで馬鹿で貧乏な女性の人生は、大らかに馬鹿やっていられないほどに厳しい。いやおうもなく鍛えられる。おめでとう。

こんな風に女性の置かれる厳しい立場を直視した上で、生き抜く方法が考察されている。

著者は60代後半(1953年生まれ)なので、「老年期」の入口まで体験した上で書かれている。これくらいの世代の著者でしかも旧来の価値観から自由な人ってそんなにいないので、読んでてスカッとする。
「あなたは馬鹿なので」といった表現は頻出するものの、上から目線でもなく、親身に語りかけてくれている感じがある。


読書や学び続けること、現実を直視すること、エネルギーを使い切ることなどを勧めており、タイトルから受ける印象よりもまっとうな内容である。
更年期についての情報も多く、あまり知らなかったので勉強になった。
紹介されている本も面白そうなものが多く、ここからさらに読書が広がるという楽しみもある。例えば、諸富祥彦「孤独であるためのレッスン」(NHKブックス、2001年)などはこの本で知って読んでみたところ、普遍性のある良書だった。
突如登場する陰謀論や「舌はがし」など、正直戸惑う部分もあったが、全体としてとてもためになる本だった。

全編通して、とにかく身も蓋もない。

現実を直視し、なんとか生き抜きたいと思う女性におすすめの一冊である。

「ばらまきチョコ」もうやめませんか?

「ばらまき」って何だ

1月も下旬になると、バレンタインデーに向けたチョコレートの記事を目にすることが増える。
その中で私が苦手なのが、「ばらまきチョコ」という言葉だ。

他に「ばらまき土産」などもそうだが、なんだか響きが汚いし、エサっぽくて相手に失礼な感じがする。
こんなもんでいいでしょ、配っとけばいいんでしょ、という感じなのだ。

そんなんだったら配らなければいいのに、と思う。
何のために配っているのかよく分からない。

お返しとか考えないといけなくなるのも迷惑だ。

「安いから手作り」?

安く大量にできるから手作り!というのもよく見かけるが、やめてほしい。

お菓子作りが得意で、普段からよく作っている人がきれいにラッピングしてくれたようなのなら別に抵抗感はないのだが、
ちゃんとした製菓材料って結構高いのに、安くあげるためにホットケーキミックスと炊飯器とか、
バターをケチってマーガリンとか…
自家消費なら個人の自由だが、他人に配るのはやめてほしい。
吹き出物が出るから、マーガリンとか謎の油は避けている。よく分からないものは食べたくないのだ。

せめて包んであったら、「持って帰って家でゆっくり食べます~」と言えるのでまだいいが、
最悪なのは、一つ摘ままされたり、ティッシュの上とかに置かれて、その場で食べざるを得ない状況に追い込まれることだ。
ティッシュに油染みとかできているのを見るとゾッとしてしまう。
食べるものとタイミングくらい、自分で決めさせてほしい。

食べるタイミングといえば、あまりちゃんとした美味しいものはそもそも職場では食べないことにしている。
電話が鳴ったり急に話しかけられたりしてゆっくり味わえる環境じゃないし、なんか職場で食べると味がしない感じがしてもったいないからだ。

チョコレートが好きだからこそ

私はチョコレートが好きで、特に冬場は種類が豊富になるから楽しみにしている。
チョコレートが好きだからこそ、紛い物のチョコもどきみたいなのは食べたくない。

「準チョコレート」「チョコレート菓子」は、健康面もそうだけど単純に美味しくないことが多いので避けている。
お菓子は栄養的にはそもそも食べなくてもいい(食べない方がいい)ものなので、美味しくなければ意味がない。

この前、人からもらって某有名な動物の形の「準チョコレート菓子」を何年かぶりに食べたら、全然チョコレートじゃなかった。
風味も口溶けもなくて、プラスチックかと思った。子供の頃はわりと好きだった記憶があるのだが…

虚礼廃止!

そもそもバレンタインにチョコレートを渡すなんて作られたもので、縁起担ぎですらない、別に要らない風習なんだから、安く済ませたいならやらなくていい。
何も渡さなければ0円だ。

正直、別に欲しくないものを喜んでいるふりをしたり、何よりお返しをしなければならないのが面倒くさい。

職場でバレンタインにチョコを配るとして、若手女性が買いに行ったり集金したり、かさばる紙袋を持って通勤電車に乗ったりするはめになる。
渡したら、今度は1か月後に若手男性がまた同じことをやらされることになる。しかも年度末の忙しい時に。しょうもない。
そんな流れは始めないのが一番だ。

ここらへんの風習もコロナでだいぶ廃れただろうし、2021年の2/14は日曜日なのでガッツポーズした人もいるのではないか。

自分が食べたいものを好きなタイミングで食べる、それだけのことだ。

ホームパーティーとか絶対やりたくない

・ホームパーティーの楽しさがわからない

分譲マンションのチラシが入っていると、買う気もないのに読むのだが、
「ホームパーティーも開ける広いダイニング!」的なことがわりと書いてある。

CMなどでも、ホームパーティーをしているらしきシーンは結構見かける。

ホームパーティーなんて主催しないし、呼ばれるのすら勘弁してほしい。
ついでに、バーベキューも行きたくない。

これくらいのものは持って行った方がいいのかなと参加する前から悩みまくり、
なんかずっと気を遣い続け、ほめ続け、ちょっとは手伝うべきかな、でもあんまり戸棚を開けたりとか触ってほしくないかな、
ちょうどいい作業は別の人に取られてしまった、でも座りっぱなしもどうかと思うからなんかやってる感だけ出して、笑顔を作って…
へとへとに疲れて帰宅する未来しか思い浮かばない。
ちょうどいい作業が残っていないというのは、バーベキューのほか、学校の文化祭準備などでありがちだ。
手持ち無沙汰にしていると、サボっているのかと白い眼を向けられたりする。

お店ではなく個人宅だと、トイレに気兼ねなく行けないのも地味につらい。たいてい1か所しかないし。
家主にことわってからしか行けないし、汚したりしないかひやひやする。

たぶん、子ども連れでレストランとか行くと、静かにさせたりとか大変だし、お金もかかるということで子どもが小さいうちは適しているのだと想像する。
でも、大人ばかりで開催することもあるし、私は経験したことがないが上司がホームパーティーをよくやるとかいうケースもあるみたいだ。休みの日までそんなのに付き合わされるなんて地獄である。

・内向的な人にとって、自宅は寝室であり聖域

私にとっての自宅は、外向的な人にとっての寝室みたいな感じかもしれない。ホームパーティー好きな人だって、さすがに寝室のドアは閉めてあるだろう。

自宅がまるごと寝室みたいなものだから、かなり親密な相手しか自宅に招きたくないし、オンライン会議で映るのも避けたい。
土足で踏み込まれる感じがする。修理業者とかは別に気にならない。

パーティーじゃなくても、レシピとかで「急なお客様にも!」っていう文言をよく見かけるけど、急に来てご飯まで食べていくのってどんな人?
そんなことするのは2親等以内の親族とか、かなり近しい相手で「足りないから自分の食べるものは買ってきて」とか言えるくらい気を遣わなくてもいい人だと思うけど、違うのかな?
そんな急に来てご飯まで食べる親しい(あるいは、厚かましい)相手は「お客様」ではないと思う。

私がホームパーティーを主催することは生涯ないであろう。

住宅過剰社会

・なぜ新しく家を建てる必要があるのか?

日本には家なんて既にたくさんあって余ってたりするのに、わざわざ自分の居住用に建てようというのは環境に優しくないし、そもそもめんどくさくないんだろうか?ロマンってやつなのか。
コンセントはここで、ドアはこれでとかいちいち決めるのもめんどくさいと思ってしまう。

野澤千絵著「老いる家 崩れる街 住宅過剰社会の末路」(2016年、講談社現代新書)は、湾岸部のタワーマンション林立や、農地に住宅が入り込んでいくことなど無秩序な開発について指摘した本である。インフラの老朽化にも言及されている。

都心への通勤圏内と一応言えそうな、埼玉県や東京都にある郊外の住宅地でも空き家が増えて、相続により所有者すら不明だったりして困っており、
埼玉県の住宅団地では「地主様 おいでの節は自治会役員までご連絡をお願いします ○○自治会」という看板が設置されていたりする。

印象に残ったのは「焼畑的都市計画」という言葉だ。

農地をつぶして、無秩序に宅地化しながら、低密にまちが広がり続け、インフラ等の維持管理コストや行政サービスを行うべきエリア面積をますます増大させ、行政サービスの効率の悪化や行政コストの増加といった悪循環を引き起こす状況は、まさに「焼畑的都市計画」であると言えます。

出典:野澤千絵「老いる家 崩れる街 住宅過剰社会の末路」(2016年、講談社現代新書)

本書では、「今ある住宅・居住地の再生や更新を重視する」といった方策が提言されている。

・賃貸か持ち家か、新築か中古か

購入は絶対したくないとは思わないけど、新築という選択肢はない。新築プレミアみたいなものが高すぎるからだ。
賃貸の場合は、収入が下がる・近隣トラブルなど何かあれば引っ越せばよいという柔軟性が魅力だ。

ずっと賃貸だと高齢になったときに貸してもらえないという人もいるが、超高齢社会で高齢者に貸さないなんて言っていられるだろうか?客の大部分を切り捨てるだろうか?
孤独死してずっと放置されるのが心配だとしたら、既にその問題は現実化しているぶん解決も近くて、早めに気づいてもらえる態勢が整っていればいいだけでは。
安否確認アプリ、スマートウォッチとかセンサーとか、そのあたりでカバーされるのではないか。

いつか空き家が増えた町で、タダでいいから住んでくれと頼まれることを夢見ている。

子どもを持つことを安易に勧めないでほしい

子どもを持つことを安易に勧めないでほしい。ほかの行動と比べて、明らかに不可逆だから。
産む本人の生命身体や人生にとっても不可逆だし、人間を一人生み出すということ自体が不可逆だ。
勧める人は何も負担しない。

 

出産は呪術的領域に放置されている

出産だけ縄文時代みたい。特に日本は未だに無痛分娩も普及しておらず、「お腹を痛めてこそ親」みたいな呪術的感覚が残っている。
そんなに痛みに意味を持たせるなんて、通過儀礼として歯を抜いたり刺青を入れたりするみたいだ、それこそ縄文時代だ。
ならば歯医者でも麻酔を使わなければよい。痛みを感じてこそ、歯磨きの大切さがその身に刻まれるのである。
自然自然とうるさい人は、飛行機もスマホも使わず、日が沈んだら眠る生活をしてから言ってほしい。要するに黙ってほしい。

人類はかなりいびつな進化を遂げた生物だ。
二足歩行により脳が大きくなったけど、二足歩行により通過しづらい形の産道になってしまった。
頭も大きすぎて出てくるのが大変だから、大きくなりすぎないうちに生まれてくる。
難産な割に、未熟なまま生まれてくるというアンバランス。
馬みたいに生まれてすぐ歩き出したりしない。
パンダみたいに本人も気づかないくらい小さい胎児の出産なら、ここまで少子化は進んでいないと思う。
そんなに進化した大きな脳を持ってるんだから、その脳を使って対策を考えるべき。
結局女しか危険にさらされないから、呪術的な世界に放置されているのではないか。

男性が出産を勧めるのは意味不明なので、無視

英国王室のキャサリン妃が、出産直後にかっちりした服にハイヒールを履いてカメラの前に登場しているのを見て私はすごく驚いた。
まず、よく分からないけど立って歩けるもんなの?と思った。白人女性ならこれを見ても驚かないのだろうか?
交通事故、全治6か月とか言われるほどボロボロになるのは、小柄なアジア人女性だけなのか?
(そうでもないみたいだ。ハフィントンポストより。

産後7時間、ヒールで笑顔? キャサリン妃と自分を比べるママ、世界で続出 | ハフポスト LIFE

男性が出産を勧めるのは特に違和感が強い。
陣痛どころか嘔吐の1回もせずに、自分の子を得られるって楽勝だと思う。
それで他人に三人産めとか言う。
そんな奴には本気でびっくりしたふりして言ってやろうかと思う。
「すごーい!○○さんは3人も産んだんですね!え、妻が?はっ?じゃああなたは産んでないですよね~」って。

酒井順子も書いてますよ。

自分が男だったら、妊娠も出産も痛くも痒くもないのです。(中略)
出産時の夫、という立場も味わってみたいものです。出産ドキュメント的なテレビ番組を見ていると、夫は妻の手を握り「頑張れ」と励まし、「自分には何もできない」とおろおろし、いざ産まれてきたら「よくやった!」と妻を誉め、頭をなで、一緒に泣く。というのが、定番パターン。

……これって、スポーツ観戦と同じ感覚だと思うのですね。傍観しつつ火の粉はふりかかってこない立場で応援し、最後に感極まって泣く。応援するだけで自分の子供が産まれてくるなら、いくらでもやりたいっすよー。

酒井順子「少子」(2003年、講談社文庫)

※太字は引用者による

産んだ本人が勧めるならまだ、体験談として耳を傾けてもいい。それでも押し付けはやめてほしい。
欲しいと思ったことすらないのに、命を懸けるなんてできるわけがない。
義務感だけでどうにかなるものではないし、心から望んだわけではなく「そういうものだから」という謎のプレッシャーで生まれさせられる子が可哀想だ。

子ども本人の幸せは放置されている

日本における「普通の人」は今、薄給で不安定かつ長時間労働だから、結婚・出産する余裕がない。
真ん中のゾーンに位置する「普通の人」が出産しないとすると、生まれてくる子どもは二極化するのではないか。
恵まれた盤石な家庭に生まれる子と、DVの結果として生まれてくるような子。
上記は都心の話で、田舎ではまた事情が違うと思うが。

少子化対策って、基本的に子ども本人のことはまず考えてないよな。
人口が減少すると今の社会を維持できない、社会を維持するために産めよ増やせよって、この世で生きるのは楽しいから仲間を増やしたいというポジティブな動機ではない。
今いる自分たちのためであって、子ども本人のことは無視している。
家畜の数が足りなくなったから補充しようとか、奴隷が逃げたぞ連れ戻せ、的な…
食糧危機に備えて培養肉や昆虫食の研究までしていることと矛盾してないか?

極論を言えば、その子の望む教育が受けられたり、その子が働きたくない場合は最低限ベーシックインカムくらいの保障ができるくらい余裕のある人じゃないと、子供を持つのは無責任じゃないかと思う。
本人が頼んだわけでもないのに勝手にこの世に連れてきて、さぁ働けってひどいと思う。懲役50年。
犬や猫を飼うときの方が、責任を厳しく求められているのではないか。犬猫は食い扶持を稼げとは言われないし。
もっと子ども本人の幸せを重視すべきだと思う。

縮小する社会で

人口が減っていくのは分かりきっているし、カーブを緩やかにしたいんだろうけどV字回復とかないし。
自分一人生きていくので精いっぱいという人ばかりの社会で、子どもが増えるわけがない。
広げた風呂敷をたたむように、縮小していく社会をどう軟着陸させるかに知恵を絞るべきであって、
「高度成長期の夢よもう一度」とばかりに五輪やら万博やら、じいさんたちの夢に付き合ってる余裕なんかないんです。
高度成長期はたまたま訪れたボーナスステージであって、「あるべき普通の状態」ではないし、戻ってこないんです。

人間だって、年をとれば日々の生活も考え方も変わっていく。いくつになっても脂っこいものを食べて徹夜で遊ぶというのは無理がある。
もう人口は増えない、そんな衰退社会は成熟社会でもあって、そういう社会なりの姿があるはずだ。
そんな成熟社会としての姿を示せるような五輪であれば、まだ意味があったかもしれない。
例えば古い施設をうまく利用して、こういうやり方もあるんだというような。でも、全然そういう考え方じゃなかった。

個人レベルでは、やりたくないことは極力せず、背負うものは少なく、身軽に淡々と生きていく。それが自分にとっての最適解だと思える。
子どもを誕生させてしまったら、もう子どものいない生活に戻ることはできない。
そんな不可逆な変化は怖くて起こせない。他人にカジュアルに勧めていい行動ではないと思う。