生きるためのセミリタイア

当たり前を疑い、40代セミリタイアを目指す

本当の余暇の重要性ー「じゅうぶん豊かで、貧しい社会」【後編】

以前の記事で、労働者が大して必要でもないものを買ってしまうことについて書いた。

今回は、「じゅうぶん豊かで、貧しい社会」を読み終えたので感想をまとめたい。 

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 7つの基本的価値

本書では、7つの基本的価値として次のものが挙げられている。

1.健康
2.安定
3.尊敬
4.人格または自己の確立
5.自然との調和
6.友情
7.余暇

人によっては「そうかな?」というものも含まれているかもしれない。

この中で最も印象に残ったのは、「7.余暇」に関する記述である。名言の連続だった。

余暇とは何か 

現代では、余暇はくつろぎや休息と同義語のようになっている。だが古くは、余暇という概念は単に仕事を休むことではなく、それ自体が一つの特別な形の活動だった。この意味での余暇は、疲れをとったり英気を養ったりして何か別のことに備える手段としてではなく、それ自体をするものだったのである。

   ※強調は引用者による。以下同じ。

本来、余暇とは単なる「休み」ではない。でも、週末や、たとえ有給休暇を取ったとしても、睡眠や溜まった洗濯などの家事、通院などで終わってしまうことも多いのではないか。単に疲れを取って仕事に備えるのは、余暇とはいえないという主張である。 

余暇が基本的価値の一つである理由は、はっきりしている。余暇のない人生、すなわちすべてのことが何かのためになされる人生は空しいからだ。そのような人生はつねに準備のために費やされる人生であり、現実を生きることがない。ほんとうの意味で世界を見つめ広い視野に立って熟考できるのは、必要のくびきから解放されたときだけであり、したがって余暇は、より深い思索、よりゆたかな文化の源泉だと言える。

上記のような過ごし方だと、休日だって本当の自由はなく、労働のためにあるようなものだ。すべてが労働のための準備だとしたら、悲しすぎる。

本当に生きているというのは、何かのためということから離れたところにあるのだろう。

 

 

「出来あいの余暇」と消費

余暇を生み出す経済的条件はどういうものだろうか。何よりもまず、労苦の軽減が必要である。賃金労働だけでなく、通勤時間や家事労働の負担も減らさなければならない。(略)労苦や疲労が一日の生活のあまりに多くを占めて、残された時間は食事と睡眠だけというのでは、余暇など不可能だ。
(略)
会話、ダンス、楽器演奏といった古くからある生活の楽しみが、まさにそれを必要としているときに衰退しているのは、まことに皮肉な現象と言わねばならない。市場取引のための生産物の最大化に向けて疾走する経済は、自発的な参加を要する余暇に代わって、出来あいの余暇を生み出すようになっている。

 

物を買うとか、ドラマを観るとか…そういう出来合いの楽しみ。ただ受動的に、消費するだけ。。

でもそれくらいの時間とエネルギーしか、労働者には残されていない。それどころか、食事と睡眠すら、まともにとれていない労働者は大勢いるのが現状だ。 

消費とは何か

消費は現代社会における偉大な気休めであり、むやみに長時間働くことに対する偽りの報酬である。
(略)
今日の資本主義に対する重大な不満の一つは、労働を過剰に生み出す一方で余暇を十分に創出せず、その結果として友情や趣味やボランティア活動を減らしてしまったことである。

 毎日へとへとになるまで働いて、時間もエネルギーも残っていない。そうやって稼いだ金銭を、大して必要でもないものに費消する。

それでいて本人は、「これのために働いてるんだよ~!」なんて思っている。空しすぎる。

「消費は気休めであり、偽りの報酬」

この言葉を肝に銘じておきたい。