住宅展示場と幻想
最近はさすがに閑古鳥なのか遭遇しなくなってきたが、住宅展示場のCMは古臭くてびっくりする。
よくラジオで流れていたので覚えているものが一つある。
若い夫婦が幼い娘を連れて住宅展示場に行き、モデルハウスとイベントを楽しむ。
妻の口調は現実世界で聞くことのない「だわ」調で、モデルハウスで注目するのは「すてきなキッチン」や花壇。
「すてきね~」「憧れるわ~」など。
この時点でステレオタイプすぎてげんなりするのだが、まだ続きがある。
帰ってきたら娘は疲れて寝てしまうが、寝言でこんなことを言う。
「パパおうちがんばってね」
怖すぎ!
妻が吹き込んだのかと勘繰ってしまう。
家を頑張るというのは、頑張って住宅を取得するということだろう。
上記のステレオタイプっぷりからして専業主婦前提、子あり、そして(頑張るというくらいだから)35年ローン…
そんなに色々一人で背負えるか?重すぎる、危なっかしすぎる。
家を買ったとたん転勤になり、自分は住めなかったりして。
そういう諸々に目をつぶって「これこそが幸せなんだ!」と思い込ませるのがマイホーム幻想なのだ。
労働者と持ち家
かなり早くからエンゲルスはこの幻想に気付き、問題視していたようだ。
エンゲルスはエミール・ザックス『労働階級の住宅状態とその改良』を批判しつつ労働者の持ち家の問題に言及している。ザックスは労働者が住宅を所有することによって、「確実な支柱」を持つことになり「資本家になる」のだと考えている。アメリカン・ドリームとしての住宅の所有もまた、そうした幻想に結びついている。
エンゲルスの批判は、労働者が持ち家を私有することがいかに資本のシステムから逃れられないことになるのかということに向けられている。
エンゲルスは労働者の住宅は衣服と同じで、自ら取得したものを自身で使うのだからそこから利潤は生まれないし、取得すれば彼は「自己の家屋に対して家賃を払うことになる」(今日ではローンがそれにあたる)し、さらには都市生活者は自由に移り住むことができなくなる。しかも悪いことに、そんな状態にありながら、住宅を取得した労働者は自分もブルジョアになったと錯覚してしまうというのである(『住宅問題』)。
理念なき生活提案として、戸建て住宅を供給することは、たしかにエンゲルスが指摘するような面を持っていることは否定できなかった。
出典:柏木博「家事の政治学」(岩波現代文庫、2015年)
※改行・太字は引用者による
家を所有することで、働き続けなければいけなくなる。自分が住むための家は消費財と同じで利潤を生みださないにもかかわらず、これは資本だと錯覚している。
これは確かにそうで、現代にも大いに当てはまるといえる。「一国一城の主」とか。
アーリーリタイア、セミリタイアを考えるような人はここら辺のことに気づいていて、きちんと疑い自分なりの考えを持っているのだと思う。
何も疑わず「そういうものだ」「家を持って一人前」と思い何十年ものローンを組む人は、どうぞどうぞという感じで、私は別に止めたりしない。考え方は人それぞれだし、生計を共にしているわけではないから、説得する必要もないし押し付けたくもないのだ。だからマイホーム派も、こちらにその考え方を(アドバイスという体で)押し付けないでもらえればとお互い平和だと思う次第である。