生きるためのセミリタイア

当たり前を疑い、40代セミリタイアを目指す

男子トイレも全部個室にしたらいいのに

なんで見えるところで排泄しなきゃいけないのか

なんで男子トイレは個室がごく一部しかないのか?男子トイレも個室を当たり前にした方がいいのではないか?

(入ったことないけど)

やっと一人になれる貴重な場所なのに、小便器では上司とか誰かが隣に来るかもしれないし、気が休まらなさそう。

男性達は慣れてるんだろうし、いちいち個室に入って脱ぎ着してとかめんどくさいのかもしれないけど。

なんか無防備すぎるし、他人から見えるところで排泄するってけっこう変だと思う。

あと、男性の方がお腹を下しやすいし、ちゃんと個室の数を確保した方がいいのでは。

実は精神面にもつながっているのでは?

大げさ・考えすぎかもしれないが、

「そんな小さいこと気にするな」「気にしなくて当たり前」というのが積もり積もって、自分の痛みにも他人の痛みにも鈍感な人間を作り、我慢しすぎて弱音を吐くこともできず追いつめられてしまったり、他人をモノみたいに扱ったりしてしまうのではないか。

意外とそういう大したことなさそうなところが、つながっているのでは?と思う。

自己啓発と「素手でトイレ掃除」と教育

素手でトイレ掃除、自分がやる分にはご自由にだけど…

経営者とかが語る自己啓発的なものとかで、
「素手でトイレ掃除」という話が出てくるとそこでもう回れ右という気分になってしまう。
先日も、「本気のトイレ掃除」という言葉に遭遇し、さよなら…と思った。

自分が家とかでやる分にはなんでもいいのだが、
学校で子どもにやらせるのは一番ひどい。逃げられないから。

そこで「なんで?」とか「やりたくない」と言うのを認めないなら、個性を伸ばすとか自主性を育むとか嘘を言うのはやめて、
学校は言われたことを疑問を持たずにやる労働者(奴隷)養成所です。と堂々と言ったらいいと思う。

なんか、子どもとか若者を自分の思い通りに動かして、悦に入ってるだけじゃないのか。
運動会の組体操問題と同じで。

舐められるくらいきれいにしろとか、たとえだとしても気持ち悪い。
「コロナチャレンジ」とかいって便器を舐めるYouTuberじゃないんだから…

なんかもっと他にやりようがあると思う

もちろんトイレはきれいであるに越したことはないけど、プロがトイレ掃除するときってゴム手袋とかして強い洗剤や専用の道具を使うと思うのだが。
宝塚の「ヘアピンで掃除する」とかも、それって大してきれいにならなさそうだし、ちゃんと掃除用の道具を使って、もっと別のことに時間を使えばいいのにと思った。

自分の生活する空間を清潔に保つというスキルは持っていた方がいいので、本格的に汚れる前にサッと掃除するとか、洗剤の酸とアルカリとか、そういうことを身につけられるようにしたらいいと思う。

運動についても同じで、体育の授業で何かを見本としてやって見せたところで大して身にはつかないし、算数とかと比べて教え方が雑だと思う。ドッジボールとかやっても投げるのが下手な人がうまくなることはなく、運動が嫌いになるだけで何の意味もない。
健康を保つため最低限の運動習慣を身に着けられるように、ストレッチとかコツコツ歩くとか、もっと継続的に将来に役立つようなことを教えるべきだと思う。

恐怖に名前を付けること

 

妖怪、理解できないものに名前を付けること

ホラーが苦手でも、妖怪は好きだ。
キャラクター的な要素もあるが、最も興味深いと思うのは、今よりずっと科学が発展しておらず死が身近で、夜の闇がもっと深かった時代の人たちが、
不可解な現象などに名前をつけ、対処法を作り、それで恐怖や不安と折り合いをつけていたことが見えるからだ。そんなプロセスが保存されている感じが楽しいのだ。

代表例が「袖引き小僧」や「べとべとさん」(出典:水木しげる「日本妖怪大全」)だ。

 

図説 日本妖怪大全 (講談社+α文庫)

図説 日本妖怪大全 (講談社+α文庫)

 

 


いずれも夜道に登場する。昔の夜道は現代人には想像もできないくらい暗かっただろう。

そんな中で、
・夜道を歩いていると、着物の袖が引っ張られた気がする、怖い!
→それは「袖引き小僧」の仕業だ。袖をツンツン引っ張るけど、それ以外は何もしない。

・夜道を歩いていると、後ろから誰かついてきてる気がする、怖い!
→それは「べとべとさん」という妖怪だ。道の傍らに寄って「べとべとさん、先へおこし」と言うと、ついてくる足音はしなくなる。

というように、対象に名前を付けることで対処のしようもあるし、訳の分からない恐怖から距離を取ることができる。

現代の妖怪は「病名」?

このようなプロセスは、オカルト的な分野に限られないと思う。

体調不良の場合

・特にどこが悪いわけでもないが、体調がすぐれず毎日辛い。
→調べてみたら「自律神経失調症」みたいだ。
→「副腎疲労」チェックリストによると、自分はどうやらこれらしい。

などなど。原因不明のままよりも、診断名がつくと症状はそのままでもなんだか安心する、という人は多いのではないか。

対人関係の場合

また、対人面でもよくあると思う。かなり単純化するとこんな感じだ。

・他者への共感がないみたいな人に遭遇して、理解できなかった。
→「サイコパス」というらしい。初対面だとこういう特徴があるのか、警戒しよう。

・昔から注意力散漫と言われ、忘れ物が多くて困っている。
→ADHDというのか。こんなふうにメモを作ってみよう。

最近だとHSP(繊細過ぎる人)とかもそうじゃないかと思う。

いっそ病気であってほしい症候群?

ただ、何かで読んだのだが、大人になってから自分はADHDかもしれないと思って診察を受けてみたが違って、いっそ診断名がついてほしかったのに…という人も多いらしい。
その気持ちは私も想像できる。なんらかの問題を抱えていて、いっそ診断名がつけば納得もできるし対処のしようもある。周囲に伝えたり、同じ立場の人とも交流しやすいかもしれない。
もしかしたら、「病気のせい」にすることもできるかもしれない。
でも、何も病名がつかないと、自分が悪いみたいになるし、丸腰で問題と向き合わざるを得なくなる。それはしんどいだろう。

実際、私自身もネット上で「スキゾイド」の解説を見つけて、自分はこれかもしれないと思ったらちょっと気が楽になった。
さらに、正直いって、「極度のめんどくさがり」「できれば何もしたくない」というのは私が怠惰なのではなく、(今はまだ病名のない)病気であってくれれば…と不謹慎だけど思ってしまう時があるのだ。
「脳の○○部が機能不全」とか、ゲノム解析により「先天性無気力症候群」と判明、とか。適当に作ってみたが、もしかしたら10年後にはそういうのがあるかもしれない。

怪異と名前

名前を付ければ恐怖が収まるというほかにも、怪異と名前にまつわるパターンは多い。

化け物の名前を当てたら逃げて行ったとか、
逆に、名前を出したらその化け物が来てしまうから言ってはいけないとか。
自分の名前を知られたら魂を抜かれる・名前を呼ばれても反応してはいけないとか、呪術に使われないよう本当の名前は隠すとか。

名前はそれだけ重要なものと考えられてきたのだろう。
古い物語というのは、昔の人の思考プロセスがわかるから面白いのだと思う。

ホラーが苦手だけど、好きなホラー作品

「ぼぎわんが、来る」を読んで、自分とホラーとの関係性を考えてみた。

 

○ホラーはどちらかというと苦手

ホラーがあまり得意ではない。

小説だと貴志祐介「黒い家」と、道尾秀介の短編集くらいであまり読んでないし、
目に焼き付いて忘れられなくなりそうな見た目の怖さやグロテスクさ、そもそも驚かされるのが苦手で、ホラー映画はほとんど観ていない。
お化け屋敷もそうだが、いきなり出てきたらびっくりするのは当たり前なので、びっくり系は好きではない。

○それでも好きなホラー漫画

それでも好きな作品がある。

ホラー漫画だと伊藤潤二と、山岸凉子の作品が好きだ。

・伊藤潤二 

うずまき (ビッグコミックススペシャル)

うずまき (ビッグコミックススペシャル)

  • 作者:伊藤 潤二
  • 発売日: 2010/08/30
  • メディア: コミック
 

 

伊藤潤二作品は結構グロテスクな描写もあるが、繊細なペン画が美しい。
怪異現象との距離の取り方が独特というか、どこかドライな視点があって、ホラーが苦手でも読みやすい。

「よくこんなこと思いつくな…」という短編がぎっしり詰まっている。
伊藤潤二作品を一言でいうと、「良質な悪夢」だ。
怖い夢や変な夢を見て、「でもなんかよくできてたな、完成度高かったな…」と思うことが時々あるのだが、その感覚に近いものがある。

特に好きな作品は、「道のない街」「長い夢」「記憶」など。

“鬼才”って、こういう人のことを言うのだと思っている。

・山岸凉子 

汐の声 (山岸凉子スペシャルセレクション)

汐の声 (山岸凉子スペシャルセレクション)

  • 作者:山岸 凉子
  • 発売日: 2010/01/18
  • メディア: コミック
 

 

山岸凉子はホラー漫画家ではないが、怖い短編が結構多い。サイコホラーが主だが、オカルト系もある。
怖すぎてあまり思い出したくないのだが、後者の代表作は「汐の声」「私の人形は良い人形」(こちらは表紙の時点で怖くて見たくないので、リンクも貼りません)など。
山岸凉子作品はホラーに限らず家族関係がテーマになっているものが多く、「家族といったって味方とは限らない」「親が一番の敵ということもある」という世界観を10代の私に教えてくれた。もう少し大人になってから読んだほうがよかったかもしれないが、後悔はしていない。

好きな短編は「天人唐草」「パイド・パイパー」など。

何十年も前の作品であっても、今読んでも古くなっていないところがすごい。今だと「毒親」とかそういう言葉があるけど、いち早く描いていたのだと思う。

クラシカルかつ今どきのホラー小説、澤村伊智「ぼぎわんが、来る」

(注意:ストーリーの核心には触れませんが、若干ネタバレがあります。)

澤村伊智「ぼぎわんが、来る」(角川ホラー文庫、2018年)

 

ぼぎわんが、来る (角川ホラー文庫)

ぼぎわんが、来る (角川ホラー文庫)

  • 作者:澤村伊智
  • 発売日: 2018/02/24
  • メディア: 文庫
 

  

・今さら読みました

2015年の刊行時から気になっていたのに、なんとなくずっと読むのを先延ばしにしていた本。
単行本の帯には、選考者の評として「選考をしていて続きを読むのが楽しみだった」というような内容が書かれており、
大多数の選考作品は続きを読むのが楽しみではないんだな~大変だな~と思っていた。

面白そうなのに読んでいなかった理由は、「めちゃくちゃ怖そうだから」である。
ホラーがあまり得意じゃないのだ。

でもやっぱり気になるので、今さらながら読んでみた。
ある地方に伝わる化け物がいて、訪ねてきても返事をしてはいけない、とかそういうクラシカルなホラーの設定をベースにしつつ、家族の抱える問題とか現代的なテーマが描かれていて、とても完成度が高かった。

・認知の歪み?

主人公・秀樹の思い込みの強さ(認知の歪みというのか?)が見え隠れする。
開始早々、妻・香奈と出会う前の回想でこれだ。

やはり心のどこかで一人っ子であること、親の面倒をみなければいけないこと、それには伴侶となる女性が必要であることを、常に感じていたのだろう。

怪異部分の回想でもないため、さらっと読み飛ばしてしまいそうだが、「ピピー!」という感じで引っかかった。
なぜ親の面倒をみるのに妻が「必要」なのか?実は全然つながっていない。論理の飛躍である。
独身者だって親の面倒は見るだろう。既婚のきょうだいが育児に追われているからメインで関わってるという人もいるだろう。

そして何より、ナチュラルに自分じゃなくて妻が、自分の親の面倒を見ると思っているのだ。
なんかこれは後々、厄介なことになるのでは…?と思ったら、案の定だった。。

・「イクメン」への痛烈批判

作者は自称イクメンに恨みでもあるのか?というくらい厳しい視線が向けられ、これでもかと描写されていた。
一つ一つのエピソードがいかにもありそうな感じで、この部分は夫の愚痴系Twitterぽかった。妻が風邪を引いた時の対応とか、よく見かけるやつだ。

特によかったのは「パパ名刺」だ。そのままじゃなくても、似たようなことを本当にやってる人が現実にいるんですよね…?見てるこっちが恥ずかしいくらいの代物で、秀逸だった。
化け物とかあんまり関係ないけど、これが出てくることでクライマックスの一つが形成されていた。

・家族礼賛ではない

なんとしても子どもを守る!という親の気持ちの切実さは、子どものいない私にはただ想像するしかない。しかし本作では、子どものいない側の視点も大切にされている。
また、家庭という場が、特に妻や子という立場にある人にとっては安全でない場所になることもあったり、どす黒い感情が渦巻いていたり…という、できれば直視したくない現実もしっかり見せつけてくれる。
個人的にそこを「家族=ハッピー」という一色で塗りつぶしてしまう人が苦手なので、その点でも本作は素直に読むことができた。

・おわりに

「ぼきわん」は怖いし強いし、しぶとすぎて、途中から麻痺して笑える感じになってきた。
特徴(返事してはいけない)とかはわりとどこかで見たような感じだが、作者自身もそのことは明らかにしている。

ホラーとしての面白さだけでなく現代的な視点があって、作者の家族観に共感するところがあったので、ほかの作品も読んでみたい。

鈍感にならざるを得ないのに、気遣いを求められる

労働なんて、鈍感にならないとやってられない。

  • 快晴の日に、ブラインド閉めっぱなしの建物に朝から晩まで閉じこもる
  • 誰からか分からない電話に出る
  • 「うちの会社にはLGBTとかいないから大丈夫」的な感覚の上司と会話する

など、そういう鈍感にならないとやってられないことが毎日発生する。
だから感受性レベルをがんがん下げて鈍感になり、ちょっとしたことでは動じない自分を作る必要がある。

そのわりに、

  • 相手の気持ちにも配慮しつつ、うまく自分の要求を通せるよう調整する
  • もはや過去の遺物となった「職場の飲み会」*1では、近くの人のグラスが空きそうになったらメニューを手渡し注文を聞く
  • 相手のちょっとした変化に気づいて声をかける

とか、下げまくった感受性レベルではできないようなことも求められる。

鈍感じゃないとやってられない環境を作っておいて、繊細な気遣いを求める。
ダブルスタンダードじゃないのか。
そんな器用な使い分けはできない。

少なくとも、「うちの会社にはLGBTとかいないから大丈夫」とか言ってしまうような雑な感覚の持ち主は、他人に気遣いを要求してはいけないと思う。

 

*1:コロナ禍が収束したとしても、もう職場の飲み会には行かない。「なんか昔はそういう慣習があったらしいですね~」というスタンスで、葬り去ることにしたい。

みんなみたいになりたくてもなれなかった

みんなが普通にやっていることが私にはできない。
私はみんなとは違う。悪い意味で。
周囲を見下しているのではなくて、みんなみたいになりたくてもなれなかった。
子どもの頃からそう思っていた。

例えば内向的な性格なのに社交的にふるまうように、
自分を作り替え、変形させ続けることで適合しなければ社会の中で生きていけないのであれば、
そんな鋳型のような社会からは脱出したい。

自分は高尚な趣味を持っているのだと言いたいわけではなく、
マンガといったらワンピース、西野カナの歌詞めっちゃいい、
制服ディズニー!
という人であれたらよかったのに…真剣にそう思う。

そしたらたぶん地元にとどまり、20代半ばには結婚して、とっくに子ども二人くらい産んでたかもしれない。
夫をはじめ、周囲の人に恵まれれば幸せな人生になるだろう。
しかし、そういう「女性らしい」生き方は、何かあったときに(DVからの離婚、とか)詰みやすそうだ。
自分で動かせる部分が少ない、運によるところの大きい人生といえるかもしれない。

今はネットで個人の言葉に触れることもできるから、ワイワイやるのが苦手という人も結構いるんだとわかって心強い。
私は自分なりの楽しさを見つけ、味わっている。
それで満足だけれども、人との交流やイベントごとを楽しめる人が羨ましいとも思っている。